今まで「自分が小さくなってフラーレンの中に入ってみたらどうなるんだろうか」と考えてみたことはありますか。夢の中だけでいいので、そんな経験をしてみたい気もします。実は、フラーレンの中には、ある種の核反応まで早めてしまうほどの、不思議空間が広がっているのです[1]。
火薬の燃焼が一瞬であるのに対し、鉄クギが錆びるという現象は、同じ酸化であるにも関わらずゆっくりで、時間がかかります。化学変化では、このように反応の進むスピードがまちまちです。化学反応の進む速さは、反応の種類だけではなく、温度や触媒の有無など反応の環境によっても大きく違います。こういった反応速度が決まる条件は、物質を構成する粒子が、いい出会いにめぐりあえるかどうかにかかっています。反応条件を整えてやると、化学変化は思い通りの方向へすっとすんなり進んでくれます。
化学反応は、原子の結びつきが変わる現象です。では、もっと小さな世界、電子や陽子や中性子といった素粒子の結びつきが変わる場合はどうでしょう。元素の性質を決めるそもそもの原子核が変わってしまう核反応のスピードは簡単に変えられるものなのでしょうか。
主な放射性同位体の半減期であれば、ちょちょいのちょいで調べることができますから、インターネットは便利ですね。どうぞお調べください。
本来は安定元素であるベリリウムの、放射性同位体ベリリウム7(7Be)を例にとると、半減期は52日とあります。この数値の意味するところは、もしベリリウム7原子が100億個あったら、50億個になるのは52日後くらい、25億個になるのは104日後くらいだよ、ということです。なお、ベリリウム7の原子核は、4個の陽子と、3個の中性子からなります。ウィキペディアでも、理科年表みたいなものでも、とくに細かい条件もなくしれっと書かれているとおり、一般にこの手の核反応が進むスピードは周りからほとんど影響を受けません。温度がちょっとくらい高かろうと、人体に取り込まれようと、いつもいっしょの一定です。原子の結びつきを変えるとか、分子のつながりをそのままに原子の振動を激しくするとか、こういう素粒子よりもずっと大きな世界で何かしても、わたしたちの身近な生活で想像できる程度ではエネルギーが足りなすぎて、たいていみんな無意味です。中性子をたくさん用意してちょうどいい速さでぶつけるとか、素粒子の世界で何かしない限り、化学反応と比べれば核反応のスピードはめったやたらなことでは変わりません。普通はね。
フラーレンの中には核反応を早くする不思議空間がある
核反応といっても、原子核がまっぷたつに分裂したり、あるいはふたつの原子核が融合したり、いろいろな様式があります。ベリリウム7(7Be)は電子捕獲(electron capture)というちょっと変わった様式の核反応を経て、ひとつ原子番号が小さいリチウム7(7Li)に変化します。空が落ちると心配してもしょうがないという杞憂の故事はどこへいったのか、電子捕獲が起きるときは、ベリリウム7の原子軌道の上をめぐっている電子(e-)のひとつが、原子の真ん中にある原子核へと落ちてきて陽子(p+)とぶつかり、中性子(n)へと変化します。ベリリウムからリチウムに原子番号がひとつ若くなる理由は、陽子が1個なくなっているからです。
p+ + e- → n
さて、ここで考えましょう。原子核はとっぱらえないけれども、電子ならばとっぱらったり、むりやりおしつけてやることはできるのではないか。電子が捕獲しやすかったり、しにくかったりすれば、ベリリウム7がリチウム7に変化するスピードにも影響が出るはず。もしや、こんなことをご想像でしょうか。ベリリウム原子は、内側のK殻に2個の電子、外側のL殻に2個の電子があります。例えば、すべてとっぱらうことは技術的に難しいですが、一部であれば電子をとっぱらうことはできます。実際、フッ素なんかのハロゲン化物にして、ベリリウム原子から電子を少しだけ取ってやると、1種類の元素だけからなる単体である金属ベリリウムと比べて、わずか0.07パーセント~0.15パーセントだけ半減期が長くなることが分かっています。主に奪われる電子は外側のふたつであって、ハロゲン化物にしても原子核により近い内側の電子に与える影響は小さいため、差がわずかな点はしょうがないでしょう。
実は、ベリリウム原子に電子をおしつけてスピードを変える方法があります。わずか直径1ナノメートルにも過ぎない小さな空間。そうフラーレンの中[1]です。
中身入りの内包フラーレンを作るという操作は一筋縄ではいきません。それでも、苦難の末に、ベリリウム7内包フラーレン(7Be@C60)が十分なスケールと純度で合成されました。そして、フラーレンの中のベリリウム7がリチウム7に崩壊していくスピードを、液体ヘリウムで冷やしながら測定したところ、金属ベリリウムと比べて1.5パーセントも半減期が短くなることが判明しました[1],[8]。この差異は、断トツ桁違いで驚愕の数値です。コンピューターシミュレーションによると、フラーレンの中にベリリウム原子を内包してやると、ベリリウム原子はフラーレンの中央にある状態が最も安定で、このときベリリウム原子はフラーレンから電子をもらいすぎた状態になります。
本当のおもしろさはどこにある?
電子捕獲する放射性同位体の中でも、ベリリウムは原子番号が小さく、最も内側の電子まで影響を与えやすい元素です。違いが1パーセントちょっとであったこと[1]は、ふたつの大きな意味を持ちます。
第一に、この数字を大きいととらえて、やはりフラーレンの中の空間はかなり異質であるということです。イオン結合やら共有結合やら、ベリリウムで普通に化合物を作ったときとは段違いでした。放射性ベリリウムに限らず、大量合成してみたら内包フラーレンに想定外の物性を発見、ということは、まだまだあるかもしれません。どんな原子や小分子も同じ方法で入るというわけではないため、もし作ることができればの話ですが、まだ見ぬ可能性にはワクワクしてしまいます。内包フラーレンは注目の高い分野[5],[6],[7]でしょう。
第二に、この数字を小さいととらえて、やはり核反応のスピードはめったやたらなことでは変わらないということです。電子捕獲と異なり、アルファ線を出すアルファ崩壊やベータ線を出すベータ崩壊といった一般の核崩壊が起こる瞬間は、原子核の中だけでお話が完結しています。フラーレンで放射性物質の除染とかそういうお話をインターネット上で見かけると、なんだか悲しくなってしまいます。そういう道理にはならないんですけどー。フラーレンの中に入れて遅くなる核反応は電子捕獲だけであり、他の様式の場合はただの労力の無駄です。
フラーレンの中という不思議で夢のある世界が、荒唐無稽ではりぼての感動に終わるのか、本物のサイエンスとして花開くかは、意外と科学研究予算を支える市井の人の認識にもかかっています。フラーレンは1985年に存在が証明[2]され、1990年には安定した合成方法が確立して詳しい物性が明らかにされました[3]。2002年には有機化学の方法論を使った精密合成も達成[4]され、最近さらに、開腹して縫合するというまるで手術のような手法で水素分子[6]や水分子[7]までも入れることができるようになりました。フラーレンにひめられた不思議空間のサイエンスに、さらなる発展を期待します。
追記
ご賢明な方はお気づきかと思いますが、本記事第1稿には致命的な誤解がありましたので、書き直しました。たいへん申し訳ありませんでした。お詫び申しあげます。
Green 2013. 9. 25.
参考文献
- “Enhanced Electron-Capture Decay Rate of 7Be Encapsulated in C60 Cages.” Ohtsuki T et al. Phys. Rev. Lett. 2004 DOI: 10.1103/PhysRevLett.93.112501
- “C60: Buckminsterfullerene.” Kroto HW et al. Nature 1985 DOI: 10.1038/318162a0
- “Solid C60: a new form of carbon.” Nature 1990 DOI: 10.1038/347354a0
- “A Rational Chemical Synthesis of C60.” Scott LT et al. Science 2002 DOI: 10.1126/science.1068427
- “Lanthanoid Endohedral Metallofullerenols for MRI Contrast Agents.” Haruhiko Kato et al. J. Am. Chem. Soc. 2003 DOI: 10.1021/ja027555
- “Encapsulation of Molecular Hydrogen in Fullerene C60 by Organic Synthesis.” Koichi Komatsu et al. Science 2005 DOI: 10.1126/science.1106185
- “A Single Molecule of Water Encapsulated in Fullerene C60.” Kei Kurotobi et al. Science 2011 DOI: 10.1126/science.1206376
- EC崩壊核種の半減期比較精密測定(PDF)
- 有機化学美術館
・http://www.org-chem.org/yuuki/C60/C60.html
・http://www.org-chem.org/yuuki/fullerene/fullerene2.html
・http://www.org-chem.org/yuuki/mow/0501/H2inC60.html