ケムステ読者の皆様はDHMOという物質をご存知ですよね。DHMOはジハイドロジェンモノオキシドの略です。これは大変危険な物質とされていて、酸性雨の主成分であったり、温室効果を引き起こすなど環境問題でしばしば取り上げられたかと思えば、悪性腫瘍に含まれていたり、強力な毒素を作り出す微生物の増殖を促進したり、はたまた福島第一原子力発電所では放射性物質を含んだものが検出されるなど、人類の脅威の場で必ずと言っていい程登場します。
米国でそんな危険な化学物質であるDHMOが浄水場から家庭の水道に送られているというエイプリルフールネタをラジオで流したところ、住民がパニックに陥ったというニュースがありました。そのDJは毎年エイプリルフールでジョークをやっていたそうですが、一般市民にはDHMOが水であることを理解できなかったようなのです。まあ確かに本来はdihydrogenmonooxideなんて名前では呼びませんので、少し仕方ないなとも思います。化合物の名前を聞いて構造式を想像するのは化学に関わる人だけかもしれませんので。
図は論文より引用 TAP POUR, ©SJA PHOTO/ALAMY
しかし、このエピソードでもわかるように、化学物質という言葉が持つ一般人に対する破壊力は相当なものがあります。いくらあなたの身体も化学物質で出来てるんですよと言っても通常は聞き耳を持ってくれません。そこには天然物質と人工物質という大きな壁があります。ノーベル賞を受賞した技術を使って石油から作ったメントールと、ミントから抽出したメントールが全く同じ物質だとしても、前者は敬遠されることでしょう。
前置きが長くなりましたが今回のポストではNature Chemistry誌から、Bryn Mawr CollegeのMichelle Francl教授のthesisを紹介します。前回のはこちら
How to counteract chemophobia
Francl, M. Nature Chem. 5, 439-440 (2013). doi:10.1038/nchem.1661
このように化学物質と言うと一般には人工的に合成した化合物の事を指すようです。そしてそれらはしばしば有毒であるとして忌み嫌われ、化学物質恐怖症(chemophobia)の対象となります。
筆者も化学者のはしくれですが、これが一番堪えます。化学ってのはこんなに面白く素晴らしいのに一般受けはあまりよろしくないです。人工甘味料のアスパルテームはアミノ酸がたった二つ連結したペプチドですが、メチルエステルであるため体内で代謝されてメタノールを生じるとされ有害物質認定される事があります。メタノールは確かに身体にいい物質とは言えないのは認めますが、そんなことを気にする人が飲んでいる果汁100%のオレンジジュースにもおよそ80 ppmのメタノールが含まれてますよと教えたら卒倒してしまうかもしれませんね。
図は論文より引用 LIQ. N2, ©DAVID TAYLOR/SPL; CONE, ©WACPAN/ALAMY
化学物質を一切使わないアイスクリームなるものがあるようで、添加物は未使用だそうな。驚いたことになんと液体窒素で凍らせると言います。窒素はまあ無害でしょうけど、それに何か意味が有るとは思えません。いや逆に化学者には液体窒素アイスクリームは逆に受けるかも。
There are risks to both individuals and society in letting chemophobia spread unchecked.
このように化学物質恐怖症のちょっと首をかしげたくなるような話しは枚挙にいとまがないのですが、このままでいいのでしょうか?言ってる本人は意識してないのかもしれませんが、化学物質恐怖症を煽るような活動や言論を野放しにしておくことは社会にとっても危険なことです。
やはり化学に関連する職にあるものとしては何とかしたいという思いが少なからずあるのではないでしょうか?
Chembarkというblogの主催者であるPaul Bracher氏も、化学者たるもの5%の時間を化学のイメージ改善に費やすべきだと主張しています。年あたりで換算すると、ざっと二週間程になりますが、市民への教育、アウトリーチ活動は決して無駄にはならないと筆者も思います。科研費への申請でもアウトリーチについて記入する項がありますし、少しずつではありますが市民への研究者からのアウトリーチの機会は増えてきているようです。それでもなおこの現状ですから、まだまだ化学者のやるべき事は多そうです。
化学物質だってほとんどのものは役に立ってるし、人類の豊かな生活を支え続けています。ノーリスクの物質は存在しません。ジハイドロジェンモノオキシドだって4リットルも一気飲みすれば死に至ります。利益とリスクのバランスを広く周知する事こそが第一歩なのではないかと筆者は考えます。この辺りは有機化学美術館の佐藤氏の著書で分かりやすく語られています(いや決して佐藤氏のステマじゃありませんよ)。
ジハイドロジェンモノオキシドのような言葉は化学コミュニティでは通用しても一般市民には受け入れ難いでしょう。言葉といえば、アラスカのイヌイットは雪を表すのに五つの言葉があるそうです。日本語も粉雪、細雪、牡丹雪など一つのものに多様な言葉を充てる繊細な言語であり、我々日本人は言葉というものに非常に繊細な意味づけをおこなってきた民族です。Geekだけで通じる言語はこの際捨て去って、白衣を脱ぎ捨て、さああなたも街に出て市民の皆さんに化学の素晴らしさをわかりやすい言葉で伝えようではありませんか!