重水素Dの一族にまつわる匂い
毎日のように有機溶媒を扱っていると、それぞれの匂いで、どれが何だか分かってしまうようになります。匂いごと、意外と好き、好きでも嫌いでもない、耐え難いほど嫌いなど、ひとそれぞれこのみもあるでしょう。似たり寄ったりの化学構造であっても、確かにかぎ分けてしまうとなると、鼻という器官はたいしたものです。
いったいヒトはどこまで匂い分子を識別できるのでしょうか。かねてから議論になっていた重水素化合物の区別が、ヒトでもできるという実験結果が発表[1]されたので紹介します。
くんくん。くんかくんか。
難関化合物の全合成を達成した某小説の主人公[3]によると、匂いで化合物を当てる「ハナライジング」の能力は、いく種類もの化合物を取り扱っていると気になる才能のひとつです。匂いの話題は、有機化学美術館様[4]でも、4月に取り上げられています。どこまでわたしたちの嗅覚は精密なのでしょうか。
わたしたち動物が、重水素化合物のわずかな違いまで識別できるかというと、これは議論の余地があるところで、ショウジョウバエはアセトフェノンで区別できたとそれらしい報告[2]があるものの、しっかりヒトでは証明されていませんでした。そもそも論、重水素化合物とそうでない化合物を区別できたところで、「生きてなるべく多く子孫を残す」という生命共通の達成目標を前にして、ほとんど何の役にも立たないわけで、嗅覚受容体や認知のための神経回路が、淘汰されずに進化して、世代をこえて保存されているとは考えにくいような気もします。
ヒトでも重水素化合物の匂いが分かるのか
2013年1月に発表[1]された報告によれば、区別できる化合物もあるとのこと。実験では、サンプルを渡されて、匂いが同じか違うか、被験者に当ててもらったそうです。そのため、当てずっぽうでやると正答率はおよそ50パーセントになります。結果はグラフにまとめ直したとおり。
左の赤いバーがアセトフェノン・右の青いバーがシクロペンタデカノンでの結果.
母比率の区間推定をして95%信頼区間を誤差棒で表しました。
アセトフェノン(杏仁豆腐のにおい)では区別できないものの、シクロペンタデカノン(麝香のにおい)では区別できたようです。
シクロペンタデカノンの被験者11人のうち4人は、一度も誤答することなく、10回以上連続で正答したとのこと。へぇー。統計上、有意とは言えるでしょうね。これ、かぎ分けているって言えるの?
論文はオープンアクセスです。気になる人は、自分でも確かめてみたら、よいかもしれません。脳の血流動態を調べるfMRI(機能的核磁気共鳴画像法)が報告されていれば考察できることも増えるのですが、例えばただ匂いの強さが違うだけではなく感じ方も違えばおもしろいでしょうね。
参考文献
- “Molecular vibration-sensing component in human olfaction.” Gane S et al. PLoS One 2013 DOI: 10.1371/journal.pone.0055780
- “Molecular vibration-sensing component in Drosophila melanogaster olfaction.” Franco MI et al. Proc. Natl. Acad. Sci. USA 2011 DOI: 10.1073/pnas.1012293108
- 喜多喜久『ラブ・ケミストリー』
- 有機化合物美術館・分館「重水素化合物の味と香り」(URL: http://blog.livedoor.jp/route408/archives/52092687.html)