あなたがポスドクとして海外武者修行に出向いた時のことを考えてみて下さい。着任後、いくつかのテーマを提示され、その中から選ぶようにボスから言われることでしょう。全く新しいテーマもあれば、前任者からの引継ぎのようなテーマもあります。そこでふと前任者が残した資料に目を通すと、随分苦労している箇所が目にとまります。しかし、それはすでにあなたの経験でちょっとした実験方法の工夫によって容易に回避できることがわかってるとしたら・・・
数ヶ月後そのラボでは難関と目されていたテーマをあっさりと片付けて、ゴットハンドとして崇められるあなたの姿がそこにはあることでしょう。今後のキャリアも順風満帆です。
さて、ノーベル賞の発表が近づいて参りました。ノーベル賞を穫りに行くためにできることの第一歩として、Nature Chemistry誌に掲載されたTulane大学の Bruce C. Gibb教授によるthesisをご紹介しましょう。
Knowledge management in chemistry
Gibb, B. C. Nature Chem. 4, 769-770 (2012). Doi: 10.1038/nchem.1459
研究活動によって得られた様々な成果は論文、特許、学会発表、製品など形はどうあれ世の中の人々の目に触れるようになります。さもなくばそれは研究とはもはや言えず、個人の趣味となるでしょう。公衆の面前にさらされてこその科学であり、その成果は人類共通の叡智として受け継がれていきます。その成果は論文の実験項に明示される智(explicit knowledge)となります。
あなたが研究者ならば、自らの経験に裏打ちされた独自のテクニックを少なからず身につけていることでしょう。あなたが企業の研究者ならば、企業秘密とも言える門外不出のレシピを知っているかもしれません。これらの智は公にはなっていなかったり、形になっていなかったりする智(tacit knowledge)と言えます。
図は文献より引用 JIGSAW ©ISTOCKPHOTO/THINKSTOCK
いずれにしても、知的探求活動に共通して言えることは、個人の、そして組織が生み出してきた智は膨大な量にのぼるということです。
しかし、冒頭の例のように知っている者にとってはなんでもないことでも、それが必ずしも共通の智となっていないことによって、人類全体として、科学の発展にとっては無駄になっていることが少なからず存在していると思われます。Gibb教授はその点を指摘しています。
果たしてどのようにすれば人類の叡智を効果的に集約することができるのでしょうか?その前に叡智の集約は本当に必要なことでしょうか?
コカコーラのレシピは門外不出で、社内でもごく限られた人間しか知らないというもっぱらの噂です。そのレシピを独占することによって、巨万の富を毎年もたらしています。コーラのレシピが人類の叡智かどうかは微妙なところですが、独占されることが一部の利益になることは確かです。冒頭の例でも、ライバル研究室が苦しんでいるところを横目に自らの研究室でライバルを出し抜くことができるかもしれません。
Knowledge management has much to offer organizations, from small research labs to large international corporations.
しかし、科学の発展のために、研究室の効率的な運営のため、そして現実的な問題としては限られた研究予算をどうしたら効果的に使っていけるのか、公金を使っている以上納税者への還元の義務がある事などを考えた時、智の集約とも言うべきナレッジマネジメント(knowledge management以下KM)1は必要不可欠であるとの主張です。
研究室レベルでは恐らく助教や准教授当たりが自然と担当してることと思いますが、研究室独自のノウハウを誰かの頭の中に詰め込んでおいて、学生が困ったらアドバイスを与えるというのはよくあるパターンですよね。でもそれじゃダメです。なぜならその人がどこかに異動になったらラボからtacit knowledgeが失われてしまいます。少なくとも紙なり電子ファイルなりに残して、explicit knowledgeにしていくべきです。そんな小さいことでもKMになっていくのです。
しかし、KMには多くの問題があります。まず誰がやるのかということです。恐らく論文の実験項に登場しないような細かい事項は溢れているものの、それを集約していくのは恐ろしく手間がかかります。ただでさえ忙しい研究者がそんな手間をかけてくれるとは思えません。しかし多くの機関がそうであるように公金を使って研究を行うならば、KMは半ば義務とも言えるでしょう。
Knowledge management aims to maximize efficiency, nurture creativity, and even enhance serendipity.
よって組織内に、可能ならば政府レベルでKMの専門職員Chief Knowledge Officer (CKO)を置くのも検討に値します。多少コストがかかったとしても、KMによるメリット、研究資金の効率的な配分、消化を考えれば十分にペイすると考えられます。副次的な効果として、ともすると実用的な応用研究に比べて資金調達が難しくなりがちな基礎研究も適正な評価を受けることができるようになるかもしれません。
今までなんでうちのラボではこの実験うまくいかないんだろう?あいつら捏造してるんじゃなかろうかと疑ったりしたことはありませんか?突き詰めてみたら、同じ物質なのにメーカーが違うと製造法が違って、含まれる不純物が微妙に異なるため、うまく行くラボとどうしてもできないラボがあったりした例(例えばこちら)を知っています。こんなくだらない事に使われた時間は本当に無駄で、もしかしたら誰かのその後の人生を狂わせたかもしれません。KMはそんな無駄を無くしていくのはもちろんのこと、今まで気付かなかった新たな発見‘accelerated serendipity‘の手助けにだってなれる可能性を十分に秘めています。
Chance favours the prepared organization!
さああなたのラボに眠るtacit knowledgeをexplicit knowledgeにする事から始めましょう!
参考文献
- Nonaka, I. Harv. Bus. Rev. 69, 96–104 (1991).
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