「人育ては植木育てと似ている。水をやりすぎて枯れるのもあるし、水をやらないと枯れるものもある。」
たまに見せる鋭い眼光を奥に秘め、温厚な笑顔で不思議なほど人を魅了する化学者。(写真は松井正直教授業績目録ー天然有機化合物の合成に関する研究より)
研究室のモットーは不撓不屈。数多くの門下生を学問分野に送り出し、昭和という激動の高度成長期時代に燦然と輝く業績を残された、東京大学名誉教授松井正直先生は平成24年3月12日がん性胸膜炎のためお亡くなりになりました。享年94の大往生と言ってもいいと思います。
今回のポストは松井先生の在りし日を偲び、先生のご業績を振り返りたいと思います。
尚、筆者は松井先生とはかなり近縁ではあるものの直接の門下生ではありません。よって記事の内容はほぼ伝聞となっていますことをご了承下さい。間違いなどございましたらご指摘頂ければ幸いです。
松井先生は大正6年12月9日に長野県上田市に生まれました。信濃の国ですね。その後昭和16年3月に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業され(鈴木文助教授)、同年4月より台湾製糖株式会社に勤務、同社より理化学研究所鈴木梅太郎研究室に派遣され山本亮先生の下研究生として研鑽を積まれました。ちなみに卒論の指導教授であった鈴木文助先生は鈴木梅太郎先生の養子に当たります。
合成ピレスロイド化学の幕開けー京都大学時代ー
その後、昭和20年8月より住友化学工業株式会社へ転職され、同9月同社から京都大学理学部に派遣され野津竜三郎教授の下、研究嘱託として研究を行いました。この間、ピレスロイドに関するお仕事をされております。
ピレスロイドと言えば現在でも殺虫剤の成分として使用され続けている重要な化合物群で、日本の夏金鳥の夏でお馴染みの蚊取り線香の主要な成分ですが、松井先生はそのピレスロイドを含有する除虫菊の成分であるpyrethrinの構造修飾体であるallethrinの合成に成功し(1949年)、工業的製法を確立することに成功しました(1952年)。また、pyrethrinの熱分解生成物と考えられたpyrocinの構造決定、合成、殺虫活性などの研究を展開し、理学博士を授与されると共に(1950年)、農芸化学賞(現在の日本農芸化学奨励賞)をご受賞されております(1951年)。
左からpyrethrin I、allethrin、pyrocinの構造
このご経歴からもお分かりのように、先生は元々産業界の出と言っていいと思います。その後の研究に於いても、現在で言うところの産学連携の仕事を精力的にされており、門下生には企業から派遣されてきた研究生も数多くいらっしゃいます。
農芸化学の神髄を極めるー東京大学時代ー
昭和28年9月には東京大学農学部農芸化学科に助教授として就任されました。現在の東京大学生命農学研究科有機化学研究室は制度上では1922年に開設された農芸化学第四講座に端を発し、佐橋佳一、住木諭介両教授の兼任分担で昭和28年に発足した後、同年松井先生が着任されることでその研究室としての歴史が始まったことになります。先生は着任後もピレスロイドの合成をはじめ、マメ科植物の根に含まれる殺虫成分であるrotenoneの世界初の合成を達成するなど、広範な生理活性天然有機化合物の合成研究を展開されました。
また理化学研究所にも同時に研究室をかまえるなど、この分野をリードする研究者としての地位を確固たるものにしていきました。
Rotenoneの構造
ビタミン類の合成も手掛けられ、特にビタミンAを工業的に合成する手法を開発することに成功し、1958年にビタミン学会賞、また1965年には日本化学会技術賞を受賞されています。現在の有機合成化学のレベルでは容易に思えるかもしれませんが、当時はまだNMRなどの機器分析もろくに無かった時代ですから、これらの仕事がいかに困難なものだったのかは筆者には想像もできないくらいです。
βーイオノンを出発原料としてビタミンAの4異性体を選択的に作り分ける
研究者として、そして教育者として
様々な生理活性天然有機化合物の合成研究においてご業績を残されておりますが、先生の研究室にはその後研究者となる数多くの優秀な門下生が集っていることは注目に値します。文頭に松井先生のお言葉を載せましたが、先生は卓越した研究者であると共に、よき教育者でもありました。松井先生が東大の学生に最初に触れるのは駒場での教養課程における有機化学の講義ですが、その講義に感動して松井研の門をたたいた方が多かったようです。大学で教鞭を執る端くれとしてその姿は理想的に映ります。素晴らしい講義をして、良い学生を惹きつける。ともすれば蔑ろになりがちな学部の講義を見直してみようという気になります。また「人を便利大工に使ってはいけない」というお言葉からも先生の人格者たる所以が垣間見えます。
全ての方を挙げることができないのは大変残念ですが、松井研は多数の研究者を輩出しております。その中で研究室の跡をお継ぎになられたのが東京大学名誉教授森謙治先生、そしてさらに森先生の跡をお継ぎになられた北原武先生です(後に北原先生と共に学士院賞を受賞することになる大類洋先生も松井研のご出身)。
大学院博士課程から松井研に入られた森謙治先生に対して、「森君ジベレリンを作ろうよ」、「難しすぎると思うなら他のテーマもあるよ」と言われたとされ[1]、森先生はその後松井先生の期待に見事に答えて世界初のジベレリンの合成に成功されたのでした。
Gibberellinの全合成
北原先生もまた松井先生の講義に魅せられた一人です。北原先生は松井先生の主要な研究テーマの一つであるピレスロイドの誘導体合成に取り組み、当時ピレスロイドの誘導体で手付かずだった酸部分の誘導体を各種合成し、構造活性相関の研究を手掛けました。その結果、酸部分の誘導体としては初の天然物と同等の活性を有する化合物、すなわちテトラメチルシクロプロパンカルボン酸を発見するに至りました。この酸を使って住友化学で後に「ダニトール」が開発され商品化に至っております。
Knockthrin(左)、Danitol(右)の構造
まだまだ紹介しきれない多数の素晴らしい研究がありますが、松井研の歴史をひもといてみると、良い研究室には良い人材が集い、そしてまたさらに発展していくという典型的なパターンを辿っているように思えます。先生の研究業績に対する評価は非常に高く、1978年日本農芸化学会鈴木賞(現在の日本農芸化学会賞)、1979年紫綬褒章、1981年日本学士院賞(森先生と共同)、1988年勲二等瑞宝章など多数の栄誉にあずかっておられます。
大学教員としての生き様
また、松井先生は1978年定年退官されるまでの間に新規研究室を立ち上げたのみならず、学園紛争の時代に農学部長の重責を果たされました。研究者としてのみならず、管理職としてもその能力を遺憾なく発揮されました。研究者として、教育者として、そして管理職として、どれも困難な道ではありますがいずれもが高く評価されていた松井先生の姿は、大学教員のあるべき姿を映し出しているように思います。
あまり気がつかないかもしれませんが、現在では我々の生活に浸透しているような化合物に対して極めて大きな貢献をされております。正に農芸化学という学問の神髄を具現化された先生のご功績は後世に語り継いでいかれることでしょう。
「有機合成は、君、芸術だよ。」
「有機化学は勇気化学だ。勇気を持ってやらなきゃ何事も出来ない。」
お弟子さん達を叱咤激励するその言葉が胸に響くようです。
松井正直先生のご冥福をお祈り申し上げます。
1960年代終わり頃の松井研
中央グラスを手にされているのが松井先生
松井先生の左後ろが森先生、森先生の右後ろの方のさらに右後ろが北原先生
写真は北原武教授退官記念業績集より
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