さて「私が思う化学史上最大の成果」。前回の続きとなります。
本書の内容は大きく4部に分かれ、本当にざっくりと記述すると
A.人類がどのように肥料を得てきたか~南米硝石の争奪戦と枯渇
B.Haberのラボプラント実証~Boschによる量産化の苦闘
C.第一次世界大戦に組み込まれた化学工業
D.第二次世界大戦に突き進むドイツの中でのHaber、Bosch二人の苦悩
のようになります。さて、このうちBのHaber-Bosch法の実証~量産化をさらに詳細に見ていきますと、大きく次の5つのハードルがありました。
1.ラボスケールの高圧(>300気圧)アンモニア合成実現
2.触媒の低コスト化
3.原料ガス(窒素・水素)の供給と高純度化
4.巨大高圧リアクターの実現
5.周辺部品(バルブ類、計測器類、・・・)の完成
それぞれを追って見ていきましょう。
ハードル1:ラボスケールの高圧(>300気圧)アンモニア合成実現
この合成実現のためのコンセプトをHaber, ラボリアクターをle Rossignol, 検証のための数多くの実験を田丸節郎(のちの理研創設に貢献)が実現しました。Haberの功績は述べるまでもありませんが、アンモニアの分解・合成の平衡定数を綿密に追うことで必ず合成できるという理屈を打ち立てた点はまさに炯眼としか言いようがありません。またRossignol、田丸は共に極めて優れた実験技術者で、彼らの存在がこの実証に大きな影響と与えました(ただし田丸節郎の名前は本書に記載されていません・・・この点は本書の数少ない欠点だと思います)。
実証実験に活躍したle Rossignolと田丸節郎
(鮮明なle Rossignolの画像は見つかっておりません・・・
田丸節郎の画像はこちらより引用しました)
しかし1の実証の時点での触媒はなんと非常に高価なオスミウムOs又はウランUであり、低コストな代価品を探すことが喫緊の課題でした。それが2つめのハードルとなります
ハードル2:触媒の低コスト化
この難課題を解決したのがBASFの若き触媒開発リーダAlwin Mittaschです。彼は最終的にFeを主成分とし、Al2O3、K2Oを微量含んだ組成にたどり着きますが、これは2,500種類以上の材料、20,000回に及ぶ実験という凄まじいスクリーニングに基づいたものでした。
Alwin Mittasch Ostwaldのもとでニッケル触媒を研究後、BASFに入社
晩年までBASFに勤務し、数々の不均一触媒を発見した
ハードル3:原料ガス(窒素・水素)の供給と高純度化
これはあまり知られていませんが、実は2,4と並ぶ巨大な課題でした。N2供給・高純度化は比較的すんなり成功したものの、化石燃料などからH2を取り出すための高温水蒸気水改質法、その副生成物である触媒被毒成分CO除去の確立が難航を極めたためです。結局、後にBoschの片腕となるCarl KrauchによってCO除去溶液が発見され、解決されたのですが、この問題にBoschは相当悩まされていたようで、いよいよという時にKrauchに解決を命じて本人は休暇に出る、という面白い行動に出ています(本書未記載)。要は部下に課題を丸投げしたわけですが、休暇から帰ってきてみると望みの性能の溶液が見つかっていたそうです。こういった行為も場合によっては良い結果を生むものですね。
Carl Krauch
ハイデルベルグ大学でPh.D.を取得した辣腕技術者
後にBoschに代わりI.G.Farbenを率いることになる
ハードル4および5:巨大高圧リアクターの実現と周辺部品の完成
これらはBosch本人による問題発見と強力なリーダシップによって解決されますが、この部分は是非本書をお読み下さい。特に度重なる困難にもひるまず装置の大型化を成し遂げたBoschの信念、リーダシップ、それによくフォローしたBASFスタッフの協力、そして全体の開発進め方と、研究者だけでなく一般の技術者にも是非お読み頂きたい内容です。なおこの解決の過程で非常に大きな影響を与えたのは、Boschが「まっとうな」化学者ではなく冶金学(Metallurgy)を修めていたことでした。当時のBASFではいわゆる傍流だったわけですが・・・人間何が幸いするかわからんものです。
最後に何より驚くのは、この2~5はたった4年弱で完了したということです。本文には設備や分析機器への多大な投資につき触れられていますが、加えて相当な労働力酷使と無茶関係者の努力があったと推測されます。
(Haber、Krauchの写真は日本語/英語版Wikipedia、Mittaschはこちら、Boschの画像はこちらより引用させて頂きました)
本発明から100年経った現在もほとんどこの時点で創造されたシステム、触媒、手法、リアクターでアンモニアが合成されています。この書物で、人が生きていく限り必要な食料、それを支える肥料に関わる発明がどのように成し遂げられたかを見ていただければ紹介者として嬉しい限りです。
なおこのような偉大な発明を成し遂げた主人公の2人、HaberとBoschのその後は幸せなものではありませんでした。Haberは塩素系毒ガスの開発に携わったことで世間の評判を落とした上、ユダヤ人であったためにナチス(初期)により「最も愛し貢献してきたはずの」ドイツを追放されます。その後各国を転々としワイツマン(イスラエル初代大統領)からの誘いで当時建国途上のイスラエルへ向かう旅中、スイスのBaselで客死しました。一方Boschも経営者としてBASFを支えるために国と戦争への加担を強めていかざるをえず、その中でナチスに反抗するものの、結局自分が築き上げてきたものが戦争に利用されていくことを制止出来ず苦悩の中Heidelbergでこの世を去ります。いずれも「技術が権力のツールとしてのみ使われた最も不幸なケース」だったと言えましょう。おそらく二人とも化学者としては最も成功したケースであるはずなのに、このような結末と、彼らの成果のインパクトを考えるにつけ、もっと幸せな最期を迎えてもらいたかったなと思わざるを得ません。
晩年のHaberとBoschの写真(引用はこちらとこちら)。
Haberは晩年には心臓を、Boschは精神を患っていたという。
HaberはBaselのFriedhof am Hornliの高台で、またBoschはドイツHeidelbergのBerg Friedhofで眠っています。もし近くで学会などがあった場合には、こうした二人の生き方に思いを馳せつつお墓を尋ねてみてはいかがでしょうか。またHeidelbergにはBosch Museumがあり、彼の研究人生に関わる資料が多く展示されていますので是非足をお運びください。
Haber, Boschそれぞれのお墓
(Haberのお墓の写真はこちら、Boschの写真はこちらから引用致しました)
なおFriedhof am Hornliには入り口付近に検索システムがあり、Haberの墓の位置はそこから調べられます。Berg Friedhofにはそうした検索システムは無いのでなかなか探すのが難渋しますが、Boschの墓は裏手のSteigerwegという裏道から上がった、1番目の駐車場の隣の門から行けます。門から真っ直ぐに西方向へ斜面を降りずに進むと写真のお墓があります。なおMittaschも同じBerg Friedhofに眠っています。
HeidelbergのBosch Museum
(写真はこちらから引用致しました・Bosch Museum のHPはこちら)
さて、今回書籍紹介と同時にちょこっと記述したHaber-Bosch法、100年かけてほぼ「完璧な技術」になりつつありますが、未だ大きな弱点があります。それは非常に高圧・高温の反応である、というだけではありません。次回以降はそれについてご説明出来ればと思います。
今後ともご指導ご鞭撻と、叱咤激励を宜しくお願い申し上げます。
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