「解ける問題かどうかを見極めろ」
『イシューからはじめよ』はいわゆる知的生産労働に携わる読者を対象とし、生産性向上を念頭においた思考のフレームワークについて論じた書籍である。
はじめにお断りしておくが、本書のカテゴリは科学書ではなくビジネス書である。ゆえに本ブログのリピーターであれば、直接自分には関係ない書籍と感じられるかもしれない。だが全くもってそうではないと断じておきたい。
本書の主張を要約すると、冒頭の2文にまとめられると思う。これこそがあらゆる知的生産労働の生産性向上に寄与する、「シンプルな本質」であると本書は述べている。もちろんその中には科学研究も含まれている。
さらに本書は、研究者をも想定読者として執筆されている。これは他のビジネス書と一線を画する特徴だろう。我々理系読者にも馴染みやすい例が実に豊富に散りばめられており、このような書物は稀有に思える。
本書に対する私個人の評価は、この上なく絶賛的なものである。とはいえ、どこの馬の骨かわからない一ブロガーがそう主張しても、実際に本書を手に取る人は少ないだろう・・・それではあまりに勿体無い。
だからこういう薦め方をしてみる。
もしあなたが本書を読むかどうか迷っておられるのなら、「圧倒的に生産性の高いサイエンティストの研究スタイル」というブログ記事を一読されたい。
これは本書の著者・安宅氏によって書かれたものだ。短文ながら、「イシューからはじめよ」のエッセンスが余すところなく凝縮されている。
もし考えさせられ、唸らされ・・・という読後感を抱いたのであれば、詳しく議論されている本書をぜひ読むと良い。他ならぬ私自身もこの記事に感銘を受け、本書に行き着いたひとりである。
著者の安宅和人氏は東大で生物化学を学んだ後、マッキンゼーに勤務しビジネスコンサルティングに携わった。その後、米国にて脳神経科学のPhDを取得し、現在はYahooで再びビジネス畑の仕事をされている。そんなユニークな経歴からの視点を通して、ビジネスコンサルティングと研究世界という一見して交わらなさそうな両者に通ずるエッセンスを指摘している。
本書の大半は抽象的かつ概念的な記述であり、「使える」テクニックはそれほど述べられていない。すなわち読めばすぐさま効果が出るタイプの書籍ではないということだ。あくまで知的労働の生産性を高める取り組み方の姿勢と、それを裏付ける哲学や思考フレームワークを論じた書籍である(しかし文体は大変読みやすいのでそれは心配無用)。
理念を述べた序章~第一章の内容は紛れもなく超一級品であり、時間がないならここを読むだけで全く構わないだろう。ここで内容を詳述することはしないが、エッセンスにだけは触れておこう。
イシューアナリシスという考え方
本書を象徴するキーワード・イシュー(issue)とは、以下の二つの条件を満たす問題、要するに「解くべき価値のある問題」のことである。
① 2つ以上の集団の間で決着の付いてない問題
② 根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題
本書では仕事の価値を以下の2軸で評価すべきとしている。
1. イシュー度 = 今の局面でこの問に答えを出す必要性の高さ
2. 解の質 = そのイシューに対してどこまで明確に答えを出せているか
両者のクオリティが高いほど、アウトプット(成果)の価値は上がる。より良いアウトプットを、より省力的かつ短時間にて出せることが、すなわち「生産性が高い」ということである。しかしながら多くの人は「解の良質化」にのみ固執し、「イシュー度の向上」にあまり関心を持っていない。結果として「一心不乱に大量の仕事(=解の質を上げる取り組み)からはじめて、アウトプットの価値向上を目指す」ということを往々にしてやりがちである。
本書ではこれを甚だ非効率な「犬の道」と呼び、踏み込んではならない方法だと一刀両断している(合成化学研究を例に説明するならば、「○○という分子を作ることに何の意義があるか?」という議論を軽んじたままに、「各々の合成収率を向上させること」のみを重視する姿勢こそがそれに相当するだろうか)。勿論このような進め方では、いずれ研究の価値が頭打ちになること明白である。価値の高い仕事を行うためには逆のやり方、すなわち「解くべきイシューを見極めること(=イシューアナリシス)からはじめる」ことが重要と説いている。
「価値ある問題設定の重要性」を解いた文章は、実のところ世にいくつも溢れている。しかし本書はそこからさらに踏み込んでおり、「答えの出せる問題かどうかをまず見極め、そうでない問題には手を出すな」と徹底している。現代の知識・技術で解けない問題というのは厳然として存在し、そこに時間を割かないことが生産性を向上させる秘訣である、取り組む前に精査すれば判別できるはずだ、と述べている。
「今の段階で答えを出すべき問題であり、かつ答えを出せる問題(=イシュー)は、我々が問題だと思う対象全体の1%ほどに過ぎない」と本書は主張している。要するにその他の99%の問題に取り組むやり方は無駄なのである。大変意義深い洞察だろう。
超一流の科学者・エンジニアに通じる冴えたやり方
話は変わるが、東大工学部の五十嵐健夫教授をご存知だろうか。彼は「Teddy」という革新的CGプログラムを開発し、世界に一大インパクトを与えた名実ともに超一流のエンジニアである。
そんな彼が記した“How to have a paper get into SIGGRAPH ?”という短文には、かなり強烈な内容が記されている(※SIGGRAPHとはCG界で最高の国際会議であり、実験化学者ならNature, Science, JACSなどと読み代えてみるとイメージがつかみやすいだろう)。私個人もこの文を読んで感銘を受けたひとりだが、本書が述べる内容と実に多くの共通項を見いだせるのである。
例えば
”You must list 100 possible research ideas first, carefully investigate the possibility of 30 of them, implement 10 of them and see how it goes, and pick the most successful one in the end. You must understand that 100 good ideas are discarded in the process of producing one SIGGRAPH paper.”
(100の研究案を考え、そのうち可能である30を精査し、そのうち10を実施してみて、最もうまくいった1つを最終的にピックアップすべきだ。SIGGRAPHに論文1つを通す過程では、100のグッドアイデアが捨て去られるということを理解しなくてはならない。)
という部分は本書がそれを焼き直したのではないかと思えてしまうほど酷似している。
また以前紹介した超一流の科学者George Whitesidesが記した文章、“Whitesides’group: Writing a paper”にも、面白いほど重複する箇所が存在している。
「アウトラインは論文を通じてなんども書き直される」
「学術研究においてデータを集めることは目的ではない」
という言及も、本書の内容に通ずるものがある。
いずれも全く異なる分野からの言及であるが、それらがあまりにも似通っている事実は興味深い。これはすなわち、生産性の高い超一流の人材が取るアプローチは、共通の根源的要素から構成されていることに他ならないだろう。この点に気づくか気づかないかでは、雲泥の差が生まれることは明白だ。安宅氏のブログ記事も含め、これらの文が自分に欠けているものを提示してくれると感じられるならば、本書を通読して損はないだろう。
バリュークリエイションの効率化という視点
本書を薦めるに当たって一つだけ危惧がある。単なる「工数削減」に主眼をおいた本と受け取る人もいるのではないか、ということだ。 ドライで抽象的な表現ゆえに斜め読みをしてしまうと、「あくせく働くなんて馬鹿らしいよ」的な考え方を推奨している――こう曲解してしまうことも不可能ではない。
実のところ「工数削減」は、本書の述べる内容の一部でしかない。むしろ「削減した工数分の時間を思考に回し、イシューの質を高めることに使え(バリュークリエイションの効率化)」というのが本書の主旨だろう。労力の出し惜しみを推奨している書籍では無いのである。問題に全力で取り組むのは大前提なのだ。
「解けない問題には手を出すな」との主張にしても、一歩間違えれば「自分にできない=自らやらなくても良いことだ」とする誤解に基づく思考停止を生みやすいかもしれない。実際には「そこの見極めが甘いと、人生の貴重な時間を浪費してしまう危険がある」という意味である。不可能問題だとする判断を下すまでには、相応の調査および努力から成る裏付けが必要となる―この当然のことを忘れてはならない。
同じように日々の実験を行うとしても、本書で述べる「戦略的な考え方を頭において取り組む姿勢」と、「とにかく思いついたことを闇雲に試す姿勢」とでは、アウトプットの質に長期で大きな差が出るだろうことは容易に想像できる。
こういった内容は明快な言葉として示してくれる身近な上司・先輩は、本当に少ないのではないだろうか(少なくとも私の在籍環境にはほとんどいなかった!)。
まとめると、実験科学の世界で言うなら
十分量の実験経験がすでにあるが、 『実験はやればやるほど善』というゴリ押し的な進め方に疑問と壁を感じ、クオリティアップが難しい現実に直面しつつある人
にこそ有効な示唆を与えてくれる書籍だろう。しかし一方では、それなりの経験値が伴っていないと、腑落ちした理解をもつことは難しいようにも感じられる。私自身、技術を学ぶに精一杯の時期に本書を読んだとしても、真意を理解できたかと言われれば疑問である。個々人のステージに合わせて咀嚼してみて頂きたい。