震災で亡くなられた方々のご冥福を祈ると共に、一刻も早い復興を願っています。
- 3月末日@都内某所
およそ1ヶ月ぶりに訪れた都内には、春の暖かさをまとった夜風が流れていた。4月が近づいてきて日中は暖かくなってきたとは言え、仙台は夕方から夜中にかけてぐんと寒くなる。冬の名残である底冷えは、仙台の春がまだ遠いことを知らせていた。復興の目処も立たないままに仙台を離れてしまったことに後ろめたさが残っていたけれど、仕事は待ってはくれなかった。転居と新生活の準備に忙殺され、それを言い訳にして、自分だけ安全で物資も豊富な所へ逃げ出してきたような気がした。
都内の様子は、当たり前だけれど被災地とは別世界だった。久しぶりに、かつては僕の身の回りでも当たり前だったものたちを見た。売り切れじゃない自販機。煌々と光るネオン。商品の並ぶコンビニ。行き交う人の群れ。春特有の弾むような雰囲気。それらが羨ましくもあり、疎ましくもあった。被害者面はすまいと決めていたが、心が軋んで不協和音を立てる。喉に何かが引っかかるような、違和感だけがずっと消えなかった。
命があっただけでもよかったと、本当に思う。生きているだけで十分だと。
生かされたことの意味を噛み締めるように、模索するように、遺された者達は歩んでいかなければならないのだろう。この街のような明るさを、かつては当たり前のようにあったはずの平穏を、笑顔を、被災地が取り戻すまで。それにはどれくらいの時間がかかるのだろうか。そのために僕にできることは何だろうか。答えのない自問自答を繰り返して、眠れないまま朝を迎えた。
- 3月11日 15時~
あの日の午後は、鉛色をした曇天だった。駐車場に避難してきた人たちの気持ちを代弁するような重苦しい空だった。降りしきる雪の中、僕たちはただただ寒さに身を震わせていた。僕は興味本位で崩れた崖を見に行こうと思った。プレハブの向こうには何もなかった。ただぽっかりと穴が空いたように、地面が崩れて山肌が覗いていた。気を取り直して周りを見ると、あちこちの建物にひびが入っていた。来賓用の食堂がある建物には、大きく稲妻のような亀裂が走っている。僕は建物の周りを確かめるように歩いた。じゃりじゃりと音がする。ガラスの破片が飛び散っていたのだろう。築年数の古い建物の方が被害は甚大のようだ。そのまま研究棟に面する道路に出ると、車が列を成していた。よく見ると信号が消えている。大規模な停電が起こっていた。途方に暮れて、僕は皆の待つ駐車場へ戻った。本震から、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。誰もが奇妙なテンションだったのを覚えている。誰一人大きなケガをすることなく避難できたこともあってか、笑い声もちらほら聞こえてきた。それでも、そこにいた誰もが、誰もが不安と、悲しみと、苛立ちと、焦燥と、そしてほんの少しだけの安堵、それら全てが綯い交ぜになったような変な気持ちで、理解しがたい現実と必死で向き合っていた。
- 3月11日 16時~
建物に倒壊や火災の危険がないということで、少しずつ建物の中に戻れることにもなった。ただ、建物の中には悲惨な現実が待っていた。もう誰も笑っていなかった。笑うことすらできなくなった僕たちは、黙々と階段を上った。変わり果てた研究室にたどり着いて、できるだけ手短に支度を済ませた。念のため机の引き出しに入っていた頭痛薬を上着に入れた。床に散乱した駄菓子を拾い、これで飢えをしのごうかといって少しだけみんなで笑った。
それでも僕たちは、知らなかった。
一本の駄菓子。一切れのチョコレート。一粒の飴。その意味、その価値を。
その時の僕たちは、まだ知らなかった。
実験室内の応急処置をし、施錠を確認して外へ出ようとした、その時だった。地鳴りがした。余震だった。それもかなり大きい。もうだめだと思った。実際は本震ほどの揺れではなかったのかもしれないが、体に残る恐怖の残滓は拭い切れていない。周りが揺れているのか、僕が揺れているのかすら分からない。あれからずっと揺れている気がした。怖い。足がすくむ。天井が波打つ。壁がきしむ。蛍光灯が踊る。こだまする叫声。もう嫌だ。誰かが叫ぶ。誰だって嫌だ。早く逃げよう。揺れが収まるのをまって、外へ出た。外は相変わらず雪がちらついていた。
- 3月11日 17時~
とにかく屋根のあるところ、ということで学科の本部のある建物に移動した。その時、不意に僕の携帯が鳴った。携帯は父からだった。その時、祖母の家が壊れてしまったと聞いた。祖母はとっさの判断でこたつに潜ったことが幸いし、家具の倒壊に巻き込まれずに済んだのだと言う。実家の家族も無事だったと聞いてほっとしたが、不意に電話は切れてしまって、それからしばらく繋がることはなかった。僕たちは繋がらない携帯を握りしめて、それでも祈るしかなかった。どこにいるともしれない、家族や友人達の安否を。
それから、余震も大分収まってきたという判断で、僕らは帰宅することになった。おそらく電車もバスも動いてはいないだろう。みんな、徒歩で山を下りた(僕のいたキャンパスは、市街地からちょっと離れた山の中になる)。いつもなら、通学路に溢れていたはずの笑い声はどこにもなかった。皆一様に下を向いて、足早に家路を急いでいる。ふと前に目をやると、大きな買い物袋を下げた人が歩いてくる。それもお菓子をいっぱいに詰めて。お菓子?そう思った。何で大量のお菓子?しかも徒歩で?変だ。どう考えたっておかしい。僕らのキャンパスの先にある住宅街はまだ遠い。僕は気付いた。さっきの停電と渋滞。そして大量に買い込まれたお菓子。それらが意味するのは、ライフラインが寸断されたということに他ならない。
祈るように、募る不安を掻き消すように、早足で歩き続けた先で、僕が見たもの。それは、昨日までとはまるで違う顔をした街。崩れたブロック塀。倒れた街灯。扉を閉ざしたコンビニ。動かなくなった自販機。光をなくしたネオン。彷徨う人々。僕たちはこれからどうなってしまうんだろう…。
見上げた空に星が一つ。
途方に暮れて見上げた空に、こんなにもきれいな星があることを、僕たちは知らなかった。
皮肉にも、この震災が来るまでは。
あとがき
今回もまた、性懲りもなく被災レポートを書きました。震災から時が経つにつれ、そして被災地から遠く離れれば離れるほどに、被災時の記憶が薄れていきます。これは、震災を忘れないための、忘れられないための、文章なのかもしれません。