有機化学者のための分子軌道法 |
Diels-Alder反応や電子環状反応の説明では大抵の有機化学の教科書で分子軌道を用いた解説がなされています.これらは特に,福井謙一教授らにより提案されたフロンティア軌道理論に基づいています.しかし最近ではこれらの例にとどまらず,有機物の立体・電子構造や有機反応の選択性などをはじめとした様々な面で有機化学の世界にも分子軌道の概念が取り入れられています.今では分子軌道法の概念は有機化学者にとっても必要不可欠と言っても過言ではありません.しかし,有機化学の教科書ではあまり詳しい説明はなされていないし,逆に物理化学や量子化学の教科書では数式のオンパレード・・・.大抵の有機化学者にとって永年方程式だの重なり積分だのって苦痛以外の何者でもないと思います.
そこでここでは有機化学者向け(あるいは分子軌道法を学び始めたものの物理化学の教科書で挫折しかけている学部生)に,難しい数式を用いずに分子軌道法の概念をお話しましょう.なお,ここでは「直感的分かりやすさ」を強調するため,厳密に言うと少々問題となる説明もあるかもしれません.でも,有機化学者向けなのであまり細かいこと言わないでくださいね(特に理論化学屋さん).筆者も有機化学者ですので・・・.では始めましょう.
▼ 軌道と軌道の相互作用
原子に原子軌道があることは大学で化学を学んだことのある方ならば誰でも知っているかと思います.中には高校生でも知っている方もいるでしょう.そうです,s軌道とかp軌道とかいうあれですね.そして,分子は原子と原子を組み合わせることによってできていますね.だから,分子軌道も原子軌道と原子軌道を組み合わせてできていると考えられるんです.そして,そのように組み合わせる時に原子軌道同士が相互作用して新たな形を持った分子軌道ができるわけです.でも,闇雲にどんな原子軌道同士を組み合わせてもいいかというとそういうわけにはいかないのです.組み合わせた時に相互作用する場合としない場合があります.それからまず説明しましょう.結論は全て下図にまとめられています(図1).
(a)〜(c)のように原子軌道同士を近づけるとσタイプの相互作用をします.これによってσ結合ができるわけです.また,(d)のようにp軌道同士を近づけるとπタイプの相互作用をします.これによってできるのがπ結合ですね.一方,(e)や(f)のような近づけ方をすると一切相互作用をしません.これは,二つの原子軌道同士を重ねてみれば分かるのですが「黒と黒が重なる部分」と「白と白が重なる部分」の割合が1:1になりますね.「黒と黒が重なる部分」をプラス,「白と白が重なる部分」をマイナスと仮に考えると,お互いで相殺してしまうわけです.だから相互作用しません.
図1. 一対一で相互作用する軌道の組み合わせと,相互作用しない軌道の組み合わせ 次に知っておくべきことは,相互作用する場合(図1a-c)にも二種類の相互作用の仕方があるということです.一つ目は結合性相互作用,二つ目は反結合性相互作用です.それらによってできた新たな軌道をそれぞれ結合性軌道,反結合性軌道と呼びます.s軌道同士の相互作用を例として説明しましょう(図2).黒同士あるいは白同士(同位相)が相互作用するとき(図2a)が結合性相互作用です.一方,白と黒(逆位相)が相互作用する時(図2b)が反結合性相互作用となります.この二つを比べると常に結合性軌道の方がエネルギーが低くて安定となります.
図2. 結合性相互作用と反結合性相互作用
▼ エチレンの分子軌道
上記のことを踏まえた上でエチレンのフロンティア軌道を組み立ててみましょう.これは有機化学の教科書にもよく載っているのでおなじみですね.二つのp軌道同士を近づけるので図1dのパターンの相互作用をします.つまりπタイプですね.このように二つの軌道が相互作用する時には必ず,結合性軌道(Φ1)と反結合性軌道(Φ2)の二つができます.このとき,結合性軌道は元のp軌道のエネルギーより低く,反結合性軌道は高くなります.その「程度」を表したΔ1とΔ2を軌道エネルギー変化などと呼びます.このΔ1とΔ2の大きさは第一次近似では等しくなりますが,数式で別の項を考慮すると異なってきます.しかし,このへんは有機化学屋にはあまり重要でないので割愛します.そして,この軌道エネルギー変化が大きいほど強く相互作用していると考えることができます.では,この軌道エネルギー変化の大きさは何によって変わるのでしょう?
まず言えることは二つの軌道間の距離です.いくら二つのp軌道がπタイプの相互作用が可能と言っても,距離を離しすぎたら相互作用はしません.即ちその時のΔ1とΔ2はゼロです.次に言えることは軌道間の重なりの大きさです.詳しく述べると数式が出てくるのでここでは避けて結論だけを言います.σタイプの相互作用の時の方がπタイプの時よりも軌道間の重なりは大きく相互作用も強くなります.つまりΔ1とΔ2もσタイプの方が大きくなります.
図3. エチレンのフロンティア軌道の組み立て
そして,最後の一つは軌道間のエネルギー差です.今はエチレンを例としたため,二つのp軌道のエネルギーは同じでした.結論から言いますと,このような時が一番相互作用は大きくなります.逆に二つの軌道間にエネルギー差があればあるほど相互作用は小さく,つまりΔ1とΔ2も小さくなります.つまり,いくら相互作用をするタイプの軌道(図1a-d)を持ってきたと言ってもその二つの軌道間にものすごく大きなエネルギー差がある場合には相互作用はしなくなるのです.面白い性質ですね.
▼ 軌道係数
最初に数式は使わないと言ったのですが,ここで少しだけ使わせて頂くことにします.とは言ってもイメージを重視した算数レベルのものですし,数字はインチキです.その点をまずご理解下さい.
最初の項目の中で私は「分子軌道も原子軌道と原子軌道を組み合わせてできていると考えられる」と言いました.これを言い換えると「分子軌道は原子軌道の足し合わせ(和)でできている」ということです.つまり,図3を例としてこの事を式で表すならばΦ1=aφ1
+ bφ2(a,bは定数)と書けますよね.ただの足し算です.このとき,aとbを軌道係数と呼びます.何を意味してるかと言うと,新たにできたΦ1という分子軌道の中にその元となったφ1とφ2という軌道がどれだけの割合で混じりあっているかを表したものです.エチレンの場合,二つのp軌道は全く同じものですので,混じり合っている割合も同じです.だからこの場合, Φ1=0.5φ1 + 0.5φ2というイメージです(←くどいですが数字はインチキです).
では,二つの軌道間にエネルギー差がある場合にはどうなるのでしょう?前に言ったようにこの場合,軌道エネルギー変化Δは小さくなります.それと同時に軌道係数にも偏りが生じるのです.下の図4ではφ1とφ2の間にエネルギー差があります.こういう場合,相互作用により新たにできた分子軌道の軌道係数は,元の軌道のうちエネルギー的に近い方のものの値が大きくなります.この説明では分かりにくいでしょう.具体的に言うと,図4のΦ1はφ2よりもφ1にエネルギーが近いですね.こういう場合,Φ1の軌道係数がφ2よりも大きくなります.イメージ的には Φ1=0.7φ1
+ 0.3φ2という感じです.
図4. エネルギー差のある分子軌道間の相互作用
▼ 三つの軌道間の相互作用
最初の項目で二つの軌道間の相互作用について説明しました.ここではもう少し話を広げて三つの軌道間での相互作用についてお話しましょう.しかし,全て書き出すとパターンが多いので,2:1の相互作用について説明します.ここまで理解できれば四つの時も五つの時も相互作用の有無が分かるようになると思います.
再び結論を先に述べますと下の図5のようになります.この図のうち,赤で示したものが相互作用がある組み合わせ,黒で示したものが相互作用のない組み合わせです.二つの軌道間の時と同じで,重ねた時に同位相で重なる部分と逆位相で重なる部分の割合が同じものは相殺しあって相互作用がなくなります(図5b,d,f,i).また,図5の(g)と(h)はp軌道の節(電子密度が0)の部分が近づくため重なりは0となり相互作用がありません.相互作用があるもののうち,(a),(c),(e)は黒のみの相互作用という意味で同じタイプに分類できます.一方,(j)は黒同士・白同士がそれぞれ相互作用しておりなかなか面白いタイプの相互作用の仕方ですね.また,(a)〜(j)は全て下側の軌道がs+sタイプですが,p+pのときも同じように考えられます.それについては右下の点線囲みのようにs軌道の下に色の異なるs軌道を団子状に重ねてみればp軌道の模倣となるため理解できるのではないでしょうか.
図5. 二対一で相互作用する軌道の組み合わせと,相互作用しない軌道の組み合わせ
▼ 硫化水素の分子軌道
ここまで説明してきたことを踏まえて硫化水素の分子軌道を組み立ててみましょう.考え方の手順としては,まず二つのHを近づけて,その後Sを近づけると考えます.ではやってみましょう.二つのHをx軸方向で近づける(←図1aのパターン)と相互作用をして軌道が分裂し,Φ1とΦ2ができます(図6).しかし,H2SのH同士の直線距離はH2のH同士の距離よりも短いためH2の時ほど軌道エネルギー変化は大きくありません.
図6. 二つのH原子を近づけた時の分子軌道の組み立て
続いてこのΦ1とΦ2にS原子をz軸方向から近づけます.S原子には3s軌道がありますのでそれがΦ1と相互作用し(←図5aのパターン),軌道が分裂して結合性のΨ1と反結合性のΨ4ができます(図7).次にS原子の3p軌道について考えます.3px軌道は図5jのパターンでΦ2と相互作用しますね.それにより結合性のΨ2と反結合性のΨ7ができます.また,3pz軌道は図5cのパターンでΦ1と相互作用して結合性のΨ3と反結合性のΨ6ができます.一方,3py軌道は図5g,hのパターンになるためΦ1ともΦ2とも相互作用しません.そのため,エネルギー変化はおこらずΨ5となります.このように相互作用しない軌道を非結合性軌道と呼びます.また,それぞれ新しくできた軌道の大きさを見てください.前に説明したようにエネルギー的に近い方の軌道係数が大きくなっていることが図から分かりますね.
図7. H2Sの分子軌道の組み立て
▼ スルースペース相互作用
続いてノルボルナジエン (1) の分子軌道を組み立ててみましょう(図8).この化合物の分子軌道はノルボルネン (2) の分子軌道を元に組み立てることができます.骨格こそ複雑ですが2の分子軌道は結局エチレンの分子軌道と同じパターンと考えられます.それでは1の分子軌道を組み立ててみましょう.今回は2:2の相互作用です.これについてはパターンをこれまでに説明していませんが上述した2:1(図5)のパターンを理解していれば予想がつくかと思います.結論を言うと下に示す図8のようにΦ1同士,Φ2同士が相互作用し,それぞれ結合性軌道と反結合性軌道を新たに生成します.Φ1とΦ2の間には相互作用はありません.この理由は図5bのパターンと似た考え方によります.少し化学的な用語を使うと,軌道の対称性が異なるために相互作用しないとも言えます.さて,今回ここで注目していただきたいことがあります.それは,ノルボルナジエンの分子軌道では相互作用によって新たな軌道ができたものの,そこには化学結合は存在していないということです.もしも,この相互作用により化学結合が生成したならば,図8右下の点線囲みで示したクワドリシクラン (3) という化合物になるはずです.この化合物は確かに存在しますがノルボルナジエンとは別の化学種です.つまり,今回ここで説明した相互作用は結合生成することのない空間を介した軌道相互作用ということになります.このような相互作用をスルースペース相互作用と呼びます.
図8. ノルボルナジエンの分子軌道の組み立て さてここでノルボルナジエンの7位にp軌道を導入したことを考えてみたいと思います.Ψ1からΨ4の四つの分子軌道はこのp軌道と相互作用するでしょうか? しないでしょうか?今回は2:2:1の相互作用のパターンですがもう分かりますね?そうです,下の図9の赤で示したように,Ψ2のみが相互作用可能です.これは図5jと同じ考え方に基づいてますね.それ以外のΨ1,Ψ3,Ψ4は軌道の対称性が異なるために相互作用しません.この相互作用もやはりスルースペース相互作用と言えます.実際に7-メチレンノルボルナジエン (4) の分子軌道を考えてみると図10のようになり,Ψ2のみが相互作用している様子がよく分かりますね.
図9. ノルボルナジエンの7位にp軌道を導入した際の分子軌道
図10. 7-メチレンノルボルナジエンの分子軌道の組み立て 続いて,スピロ[4.4]ノナトリエン (6) という変わった分子の分子軌道を考えてみましょう.この分子は2つのシクロペンタジエン (7) を90°回転させてくっつけたようなものです.そのため分子軌道も二つの7を元に組み立てることができます.シクロペンタジエンの分子軌道は1位の炭素を取り外して環を開いてみるとブタジエンと同じであることがよく分かります.ブタジエンの分子軌道は有機化学の教科書のDiels-Alder反応のところでは必ずと言っていいほど登場しますので有機化学者の皆さんにもおなじみですね.今回のポイントはこの二つのシクロペンタジエンの分子軌道を90°回転させて相互作用させる点です.2:2:2の相互作用になります.下の図11をご覧下さい.Φ1同士は図5iのパターンとなるため相互作用せずに二つの非結合性軌道(Ψ1a,Ψ1b)ができます.一方,Φ2同士は上下で図5jのパターンとなるため相互作用して軌道の分裂が起こります.これもやはりスルースペース相互作用ではあるのですが,特にスピロ共役などと呼ぶこともあります.大変興味深い相互作用の仕方ですね.
図11. スピロ[4.4]ノナテトラエンの分子軌道の組み立て
▼ スルースボンド相互作用
最後に1,4-シクロヘキサジエンの分子軌道を組み立ててみましょう.1,4-シクロヘキサジエンの場合,1,3-シクロヘキサジエンとは異なり二つのオレフィン部はメチレン鎖で切断されているため共役はそこで切れています.そのため,ブタジエンのような分子軌道にはなりません.むしろ上述したノルボルナジエン(図8)と同じパターンの分子軌道を組み立てることができます(図12のΦ1,Φ2).しかし,これで終わりではなく話はもっと複雑になります.3位と6位にメチレン鎖がありますね.ここにはC-H結合に携わっているsp3タイプのσ軌道が存在します.この軌道,少し曲がっているもののp軌道と似ていると思いませんか?そうなんです,実はこの軌道が擬π軌道となって二つのオレフィン部に相互作用をもたらすのです.実際には軌道の対称性のためにΦ1のみが相互作用し,軌道が分裂します.このように結合を介した相互作用をスルーボンド相互作用と呼びます.なかなか複雑な相互作用ですね.
図12. 1,4-シクロヘキサジエンにおけるスルーボンド相互作用
▼ おわりに
今回のお話でどのような軌道同士がどうやって相互作用するかのパターンが少しは分かって頂けたでしょうか?数式を使わずとも割と深いところまで話ができるものです.このページを理解した後に物理化学の教科書を読み直していただくと,前よりも少しは理解できるようになっているのではないでしょうか.次回はこれらの相互作用を分子設計の段階で取り入れ,機能や反応性の制御を行っている興味深い研究についてお話することにしましょう. (2005.6. 8 YU)
▼参考、関連文献
武次徹也,平尾公彦 著 裳華房 分子軌道法の基礎を解説したテキスト。分子軌道の概念に至る流れの全体像がつかめるように構成。分子の科学、ボルン・オッペンハイマー近似、1中心1電子系、独立電子近似、ハートリー法などについて解説。 大野公一,岸本直樹,山門英雄 著 裳華房
原子軌道と分子軌道、原子軌道の図示、分子軌道の組み立てと図示の基本、いろいろな分子の分子軌道等を解説。電子軌道運動やエネルギー準位のイメージを利用しながら、化学元素の性質の由来や化学結合の仕組みを学ぶための本。
吉田政幸 著 東京化学同人
大野公一 著,梅沢喜夫 編,竹内敬人 編 岩波書店
大野公一 著 東京大学出版会
▼関連リンク
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【用語ミニ解説】
もっとも代表的な[4+2]環状付加反応で、いろいろなジエンと親ジエンからシクロヘキセン骨格が立体特異的、かつ位置選択的に得られる。
■フロンティア軌道論
反応物側から生成物をHOMO、LUMOで予測する。
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■原子軌道
Atomic orbital。 原子核のまわりに存在する1個の電子の状態を記述する波動関数のこと
px,py,pzという異なる配位の3つの軌道が存在する。 3つのP軌道はそれぞれx軸、y軸、z軸に対する軸対称な波動関数をしている。
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