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消せるボールペンのひみつ ~30年の苦闘~

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Tshozoです。最近巷でよく見るこのボールペン”Frixion Ball“シリーズ、ご存知の方も多いでしょう。

今回の主役である文房具の雄 パイロット社のヒット商品(こちら
動画はこちらから引用

筆者所属組織でも大量に使われております。初めて見てこりゃ驚いたこと。iphoneとかもそうですが、「ええっ?!」という感覚を与える製品こそ、イノベーションに共通するアレなわけです。

このペンの主役であるインク、色々調べてみたら開発開始から30年をかけて仕上がったようなのです。また元々はボールペンに使われるようなものは考えていなかったと。そこで勉強も兼ね、この不思議なインクでどのような反応が起きているのかを調べてみることにしました。

記事を書くにあたり、下記サイト・文面を参考にさせていただき、技術詳細は特許を中心に調査しました。歴史やビジネスの発展性は様々なサイト(特に下記③が本当に秀逸・書籍も出てます)で採り上げられているので詳細には踏み込まず、化学的にどうやねんというところにポイントを絞って書ければと思っております。

文献1:「特許制度125周年記念事業 「現代の発明家から未来の発明家へのメッセージ」第2期」 中筋憲一氏 こちら
文献2:「販売総数4億本!「消せるボールペン」大成功の法則」 こちら
文献3:「世界で10億本を売った「消せるボールペン」開発物語」 非常に完成度の高いドキュメント こちら
文献4: “Demonstration of Thermodynamics and Kinetics Using FriXion Erasable Pens” J. Chem. Educ., 2012, 89 (4), pp 526–528 こちら
文献5: 特許庁HPによる検索システムによるパイロット社から提出された関連特許群 一連
文献6: Dessertation of Ph.D “Investigation of Reversible Thermochromism in three-component systems” @DalhousieUniversity  こちら
文献7: Universiy of Washington “Why do we have receptors that do not see active radiation from  living beings” こちら

 

そもそも、色とは何か

まず、「色とは引き算である」ことから説明したく。反射がからむと話が少し異なるのですが、今回は吸収のところのみお話しします。たとえばリンゴ。

pilot_06

なんで赤色に見えるのかを結論から言うと、当たった光(自然光)からリンゴの色素が一部を吸光して、赤い光だけが散乱されて目に届くから。要はリンゴの色素は青色~緑とかを吸収してることになります。

pilot_07引き算のイメージ 実際には橙色のほか緑色の一部も反射される

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リンゴに含まれる主な色素であるアントシアニンの分子構造と吸光スペクトル
こちらから引用 吸収率の高い青色系の光が多く吸収され、赤色が透過してくる

で、リンゴに含まれる色素の主なものは上図のアントシアニン(anthocyanin)ですが、この分子構造で決まるバンドギャップがどの波長の光を吸収するかを左右し、基本的にはそのバンドギャップ以上のエネルギーを持つ光が全部差っ引かれることになります。なお何も反射せず全部吸収すると真っ黒に、何も反射せず吸収しないと無色透明になります。

ただし緑とかのように「なんで中間の色だけが抜けてくるのか」という疑問は残ります。上記に従うと「バンドギャップが決まればそのギャップ以上の光は全て吸い取られんのじゃねぇか」なのですが、量子効率だったり遷移だったり分子の向きだったり濃度だったりで様々に変わるようなので、ここでは立ち入らんようにします。あと物体の表面構造でも色だけに色々変わったりはするのですが話が発散するのでとりあえずここまで。

ということで本当に初歩的で定性的ですがモノの色がどう見えるかについてでした。

なんで色消えるん?!

pilot_02

くだんのインクの実例 文献4より引用

結果から先に言うと「擦った熱で無色透明になるインクを使ってるから」です。それはつまりインクを擦ることで熱が発生し「その熱でインクの可視光吸収率がほぼゼロになって無色透明に見えるようになるから」であって、なんで吸収率が変わるかというと随分前の記事で描かれているように「インクの分子構造が変わるから」。その際のポイントは、主に2重結合と平面性を持った分子(吸光しやすい)から、吸光しにくい立体性の高い分子に変わる点です。

ただ、これまで前例のない特別な反応とか前例のない分子構造の材料とかを創ったのかというとそういうわけではなさそうです。と言うのも、熱などの外部刺激で無色透明になる材料というのは非常に身近な例があって、例えば小中学校の実験でよく見る「フェノールフタレイン」。これはpH刺激(プロトン濃度↑)で透明に変わりますよね。基本的に本件のインクはこれと原理がよく似ていると推定出来るものになります。

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フェノールフタレイン反応・液が酸性(≒プロトンが多め)に近づくと
平面構造のキノン(赤点線部)が変化し、バルキーな分子構造になることで紫蘇色が消える 文献6より引用
pilot_11

上記の反応による吸光スペクトルの変化 こちらより引用(RSC “Modern Chemical Techniques”)して編集
pHが12から7あたりまで小さくなると可視光の吸収ゲインがだだ下がりするのがわかる

この反応の必要要素を見てみると、

①色素分子   ②イオンのやりとり手 ③イオン    ④溶媒    ⑤外部刺激

が介在していることがわかります(色素も電子アクセプタ/ドナーです)。それぞれ、①フェノールフタレイン、②OHイオン、③Hイオン、④水、⑤pH変化、が該当しますね。そしてこの系で③のやりとりを行った結果の分子内の2重結合(共役系)が消える=可視光の吸光が無くなることがフェノールフタレインでの反応原理です。もう少し詳しく言うと⑤塩酸が加わるようなpH変化によって③プロトンが増えて①色素分子のキノン部がフェノールになった結果、点線部の2重結合が消えて透明になるのです。この反応は基本的には可逆なので、⑤水酸化ナトリウムを加えると①色素分子のフェノール部からプロトンが離れて②のヒドロキシルイオンがプロトンを受け取り①色素分子はキノンの構造を含むことで二重結合が発生するので発色する、という形にもなるのです。【注:実際のインクでは、上記の例と逆、つまり2重結合を発生させるのにプロトンを脱離するケースもあり、「消せるインク」はどうもそちらの方を使っているもよう

つまりFrixionシリーズに使われているインクは上記と必要要素はほぼ同じで、このうち⑤外部刺激が加熱/冷却に変わったものと推定されます。こういう原理なので本インクは冷やすとフェノールフタレインの逆反応と同様、色が戻りますよ。何回再生できるかは知りませんが・・・と、これだけしか描かないと開発された方々にシバかれそうなので、もっと詳細を。

具体的にどういう材料使ってるん?

実は手がかりがあんまりなく、特許に頼らざるを得ません。

ということで関連特許を見てみると、やはりフェノールフタレインで用いられているような構造の材料(トリアリルメタンなど)を使い、同様の原理で動いている模様ではあります(文献4と同じ結論になりますが)。実調合は秘中の秘でしょうから筆者が知るべくもありませんが・・・。あとここでは述べませんが、インク化に伴うマイクロカプセル化にも多大な努力があったということを付記させていただきます(文献③)。

で、上記のフェノールフタレインと同様に必要要素を当てはめてみると下記のようになりますかね。

①トリアリルメタン・スピロピラン等の基本骨格を持つ色素分子
②トリアゾール、フェノール骨格を持つ分子→プロピルガレート(こちら)等の多価フェノールを用いているもよう
③プロトン
④変化する温度をコントロールするための温度調整剤(エタノール、エステル等) 溶媒を兼ねていると推定
⑤外部刺激→この場合は摩擦による熱

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おそらく使用されているであろう色素分子の類似構造類 上がスピロピラン系 下がトリアリルメタン系
ただスピロピラン系で「加熱で無色透明」という特性を持つものが見当たらず
分子構造的にナフトオキサジンを持つケースでないと難しいのでは、という印象(→事例リンク)

これらの組み合わせで最も重要なのは、発色状態と無色状態の安定性です。たとえば色が消える反応が起きやすくても、室温ですぐ色が戻るようでは消しても消しても浮き出てしまう。これを防ぐには④をどう選ぶかが重要で(実際にはこれが発明の中心部だったようで)、開発を率いたパイロット社の千賀邦行氏がこちらのHPで「特殊な温度調整剤を用いた」と述懐していることからうかがえるように、組み合わせるのに相当な難儀があったものと想像します。文献を色々見ているとFrixionインキ以前は④に直鎖アルコールが用いられていたようですが、「従来の説では使えないと思われるものも試してみようと試行錯誤した結果見つかった」(文献3)との記載があったことから一般には手に入りにくい材料か、逆転の発想で反応を阻害させるような材料を混ぜているのではないでしょうか。

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Frixionインキで起きている反応のイメージ
④の動き方で色が何℃で消えるかが決まるもよう

なお個人的に一番すごいと思うのは、同社が様々な色のインクを商業化させたということ。一般に光の3原色と黒色で全部の色が表現されるのですが、これは「どんな色でも熱で消える」ことが実現したことを意味し、様々な分子構造に対して共通した反応基盤が成立したのは驚愕としか言いようがありません。

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要はこの3原色⇔透明、の反応を全部成立させる必要がある
簡単のため黒の場合は割愛する

pilot_21

しかも、低温と高温で平衡が異なる材料でなければならない
文献4より引用

これまでに似た発明は無かったの?

ありました。たとえばこれ。

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「Hypercolor」Tシャツ こちらから引用
一体何に使うねんという指摘はとりあえず無視

・・・商品性は正直よく理解出来んのですがこの「Hypercolor」と銘打ったシャツは一応商品になってそれなりに売れたようです。この色素を合成していたのは日本の「松井色素工業」という会社(こちら)ですが、こういうものが2000年前後に出回っていたことを考えると技術自体はそこまで古いものではなかったということはわかります(注:松井色素工業社は、パイロット社と示温材料を巡り特許係争を行っていた履歴があり、技術的にどっちが先達者だったかは不明です)。

この他、幼児用玩具「メルちゃん」の髪に使われている色素(湯につけると色が変わります)も、パイロット社が出している同様の原理を使った「メタモカラー」によるものです。こちらは1992年に既に発売されていますね。ということで歴史は随分と昔からあったのですが、変色の温度幅を広げることとその安定性を実現するのに相当な時間がかかったということになるでしょう。

メルちゃんの髪の毛変色の例を示す動画 言っておくが筆者にそっち系統の趣味は無い

なんで発明したん?

もともとは、本件のFrixonインクを開発した「パイロット」社に所属されていた中筋憲一氏(なかすじ のりかず・旧パイロット常務取締役・現パイロットインキ相談役)の発案によります。その経緯については上記の文献3でご本人の言葉も交えて紹介していますからそちらに譲るとしまして、御本人のご発言にオリジナルを求める と、

「今から30年以上前、もみじの山全体が燃えるような赤に染まるのを見て、心から感動しました。
『この鮮やかな色変化を試験管の中で創ってみたい。』」(文献1より)

・・・ということで紅葉の色変化こそ、今回の発明の起源だったわけです(なお実際にはアントシアニンは葉に蓄積した糖が日光で合成されることで発生するもので、今回のインクのような熱の出入りとはあまり関係がないもようです・念のため)。

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このインクの開拓者 中筋 憲一氏 文献①より引用

30年前のこの感動からはじまったこのインクを使ったボールペン、Frixonシリーズの販売本数は既に10億本(2013年時点)に上るとか。ひとくちに10億と簡単に書きますが、乾電池でもヒットしたエネループシリーズで数年で1億本程度でしたからその発売数の大きさが如何に大きいものか。今後も文具類だけではなく、様々な用途にその応用先を広げていくことを期待いたしましょう。

おわりに

個人的にちょっと気になるのが、上記の中筋憲一氏のお名前がパイロット社のHPの「開発物語」から消えていること(こちら・『ある研究者』となっている)。同氏は子会社であるパイロットインキの会長職を務められた後相談役としてご活躍されているようですが、「最初に井戸を掘った人」のお名前こそ、営々と継承されていくべきだと思うのです。

また、文献中のご本人のコメントにあった

研究開発をするなら、寂しい出発をしよう

という言葉に強く心を惹かれました。「偉大な発明は雛鳥のように舞台に現れる」という名言と通じるものがあります。

思うに、企業などの中で誰にも注目されずにコツコツと寂しい穴掘りをしているのは本当にストレスが溜まる、ある意味報われない活動です。しかもハデな打ち上げ型プロジェクトをやっとる人間の方がだいたい目につくもので、そういう意味でも忍耐が必要です。その結果大きな油田に当たればいいですが、そこは千三つ、大体の人間が997になってしまう。そのリスクがある中で研究開発を続けられるのは、別に崇高な理想でもマネジメント手法でも何でもなく、ただ「念」であるという気がします。同氏が30年近い会社生活の中でそれを持ち続けられたのは、ご本人の開発の切り口の鋭さはもちろんですが、とにかく幸運であったのもあるのでしょう。

ちなみに当たらなかったら一体どうなってしまうのか。確率的に997の役割となるのは仕方ないのかもしれませんし、組織で開発を進めるというのは往々にしてそういうもんですが、こればっかりはそういう場に従事せざるを得なくなった本人の実力とめぐりあわせと運に依ってしまうのでしょう。とはいえ、上のものの失敗をごまかすために生ごみみたいな中身の開発を綺麗なラップで包む作業を下のものにさせるのは本当にどうかと思うのですけど。

ともかく今回の案件のように、皆様が千三つを引かれる確率が上がっていくよう、祈る次第です。

ということで今回はこんなところで。

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メーカ開発経験者(電気)。56歳。コンピュータを電算機と呼ぶ程度の老人。クラウジウスの論文から化学の世界に入る。ショーペンハウアーが嫌い。

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