有機化学の主役元素といえば、炭素であることに異論を唱える人はいないでしょう。アルカンやベンゼンをはじめ、有機化合物の主骨格は炭素であり「炭素を中心として考える」のが有機化学の基本です。しかし一方で、有機化学には炭素以外の元素がなくてはならないことも言をもたない事実です。現代の有機化学ではあらゆる元素を駆使して多種多様な研究が展開されています。
たとえば「化合物中の炭素原子を他の元素に置き換える」という研究もその1つです。
ご存知のように6つの炭素骨格からなるベンゼンの炭素原子1つを窒素に”置き換えた”ピリジンはベンゼンとは全く異なった性質を示します(図1)。
炭素だけの5員環であるシクロペンタジエンは脱プロトン化し、アニオンとなると6π電子をもつため芳香族性を示します。一方で、シクロペンタジエンの炭素を1つ窒素、酸素、硫黄に”置き換えた”、ピロールやフラン、チオフェンといったヘテロ芳香環はヘテロ原子の非共有電子対がπ共役系に参加することで電子的に中性な状態で芳香族性をもちます。
上記に述べたものは、置き換えなくとも既に存在していた化合物ですが、化学合成の力で置き換え、未知の化合物をつくる研究が昔より行われています。例えば、ボロールやシロール、ホスホールなど、ホウ素、ケイ素、リンに元素に置き換えた5員環も合成されています。また、ゲルマニウム、スズ、最近では鉛といった炭素と同じ14族の原子を一つ含む芳香環が合成されたことが話題になりました(図2)[1]。
炭素をホウ素と窒素で置き換えた化合物
さて、そんな「元素置き換え研究」の中の1つとして、炭素原子をホウ素と窒素で置き換えた化合物も古くから注目されています。例えば、ベンゼンの炭素をすべて窒素とホウ素に置き換えた、ボラジン(borazine)が最も有名で、1926年と100年近く前に合成されています。ボラジンはベンゼンと同じ電子構造をもつにも関わらず、電子不足なホウ素と電子豊富な窒素に由来する電荷の偏りがあり水やアルコールに対し高い反応性を示すことが知られています(図3左)。
では、ベンゼンと同じ六員環の飽和炭化水素であるシクロヘキサンを窒素とホウ素で置き換えた化合物をご存知でしょうか?この化合物はシクロトリボラザン(cycloborazane)といいます。1960年にG. H. DahlとR. Schaeffによって合成されました[2]。この化合物もシクロヘキサンに比べ反応性が高い(当たり前かもしれませんが)ということ以外には詳細な研究例はありません(図3右)。
シクロヘキサンの炭素原子を2つだけ置き換える:1,2-BNシクロヘキサン
ではシクロヘキサンの2つの炭素原子だけを一組のBNに置き換えた化合物1,2-BNシクロヘキサン(1,2-BN cyclohexane)はどうでしょうか?実は、2011年になってはじめて合成が達成されたのです[3]。こんな単純な化合物がごく最近まで合成されていなかったなんて少し驚きますね。方法は以下に図のみ示します(図4. 詳細は論文にて)。
この1,2-BNシクロヘキサンはシクロヘキサンと同様にイス型のコンホメーションをとりますが、ボラジンやシクロボラザンのように炭素原子と置き換えられたBNによってシクロヘキサンにはない反応性を示します。塩酸と容易に反応したり、加熱することによって3量化してBNからなる6員環を形成したりします(図5)。このように炭素原子を主骨格とする元の化合物と同じ構造をとる一方で、全く異なった反応性を示す分子が創成できるのがこの研究の醍醐味の一つではないでしょうか。
シクロヘキサンの炭素原子を4つ置き換える: ビスBNシクロヘキサン
今年(2015年)に入って、シクロトリボラザンと1,2-BNシクロヘキサンの中間の化合物であるビスBNシクロヘキサンの合成が報告されました(図6)[4]。この合成によってシクロヘキサンのBNシリーズが全て合成されたことになります。この化合物はC, B, Nを2つずつ含む対称な分子であり、他の化合物同様にイス型のコンホメーションをとる極めてシンプルな化合物です。
この化合物はただ構造が面白いだけではありません。150 °Cという高温に晒されても分解などを起こさない一方で、パラジウムやルテニウム触媒を作用させることにより速やかに2量化して2当量の水素ガスを放出します(図7)。同じBNシクロヘキサンシリーズであるシクロトリボラザンや1,2-BNシクロヘキサンは150 °Cで分解してしまうのに対し、このビスBNシクロヘキサンは熱安定性が高く、燃料電池自動車などに搭載する水素貯蔵剤として有用な材料となり得ると著者らは述べています。また、2量化の形式がパラジウム触媒を用いた場合とルテニウム触媒を用いた場合で異なるという奇妙な挙動を示します。
以上今回は、環状の炭素化合物を窒素とホウ素に置き換えた化合物について紹介しましたが、BNに限らず炭素以外の元素は山ほどあります。
化合物の炭素原子を他の原子に置き換えるという研究は、前人未到化合物への挑戦だけでなく未知の機能を有している可能性があるため面白いです。何より、合成や物性、機能を求めるのは難しいこともあるかもしれませんが、非常にわかりやすい!役に立つ立たないという議論は最近よく聞かれますが(もちろん役に立ったほうがよりよいですが)こういった化学者の興味で動ける基礎研究がなくならないでほしいと切に思います。
次は何が出てくるのか、わくわくします。
参考文献
- Saito, M. et al. Science 2010, 328, 339. DOI: 10.1126/science.1183648
- Dahl, G. H. et al. J. Am. Chem. Soc. 1961, 83, 3032. DOI: 10.1021/ja01475a014
- Liu, S.-Y. et al. J. Am. Chem. Soc. 2011, 133, 13006. DOI: 10.1021/ja206497x
- Liu, S.-Y. et al. J. Am. Chem. Soc. 2015, 137, 134. DOI: 10.1021/ja511766p