巷はハロウィーンムード一色ですね。お菓子をねだる子供の幽霊はかわいいものですが、趣向を変えて不気味な幽霊が引き起こしたミステリーをひとつ紹介しましょう。
ミステリーとはずばり、自分の研究が幽霊によって先に発表されてしまったというものです。
これを読めば研究者の方なら誰でも背筋に冷たいものを感じるはずです。
その幽霊による被害者はHarvard Medical Schoolの細胞生物学者Bruce Spiegelman教授です。
科学者たるもの論文を書いてなんぼです。日々の研究成果を論文として出版したときに初めてその研究の記録が人類史に刻まれていきます。よって論文とは研究者の命と言えるでしょう。今回のポストでは化学とは関係ありませんが、世界の論文のシステムの盲点、弱点をついたぞっとするような事件について紹介します。
事件を時系列で簡単に追ってみましょう
時期不詳 Spiegelman教授は6つの学会などでアディポサイトカインと総称される脂肪細胞から分泌される信号物質に関する最近の成果を発表。
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2013.7.13 Elsevier社の論文誌Biochemical and Biophysical Research Communications通称BBRCに
” Identification of meteorin and metrnl as two novel pro-differentiative adipokines: Possible roles in controlling adipogenesis and insulin sensitivity” DOI: 10.1016/j.bbrc.2013.07.008と題する論文が発表される。
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2013.7.20 Spiegelman教授はBBRCの編集者に論文の内容が自分たちの研究に酷似していること、著者を検索しても過去に一つの論文も発表した形跡がないこと、所属機関に著者が存在しないことなどを説明したmailを出す
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2013.8.8 Elsevier社は論文を撤回
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2013.9.24 NatureのNEWSに本事件が紹介され、多くの耳目を引く←今ここ
事件の内容は犯罪的です。ではなぜこんなことが可能だったのでしょうか?
昨今では論文をweb上で投稿することが普通になりました。論文はまず論文誌の編集者がpeer reviewと言われる審査過程に廻す価値があるかどうかを一次審査し、複数(通常2-3人)の審査員が掲載に値する論文かどうか、結論が適切かなどを審査します。その審査報告を基にして編集者は論文を受理するか、拒否するかを決定します。
著者は審査結果を参考にして論文を修正したりしたあと、再度修正稿を投稿したりします。編集者が受理すれば、あとは雑誌の編集事務とのやりとりがあり、体裁が整えられた論文がwebに掲載、印刷して雑誌になるという具合です。
一昔前はこのプロセスを全て紙に印刷したものを手紙としてやりとりしていましたが、現在ではこのやりとりは全てe-mail、webのシステムに置き換わっています。幽霊はこのシステムの盲点を突いてきました。手紙というのは記載の住所で必ず受け取る必要があります。赤の他人は受け取れませんし、架空の住所に送ることもできません。一方e-mailはいくらでもフリーのアドレスを取得できますし、webにはどこからでもアクセス可能です。今回問題になった論文著者のアドレスはyahoo.comのものでした。
アカウントの認証もメールアドレスがあれば容易ですから、架空の人物になりすますことなど誰にでもできます。悪意を持った第三者が架空の論文をでっち上げることが可能となるのです。生物学系ではその学問の性質上データのねつ造が比較的容易です。ましてや既にSpiegelman教授の学会発表を聞いていれば、その内容に適当な電気泳動の写真なんかを偽って実験の証拠として挙げることはそう難しいことではなかったと思われます。
審査員も生のデータを見ながら審査するわけではありませんので、悪意を持ったねつ造を見抜けなかったとしても非難には当たらないと思います。
それでは今後どうなるのでしょうか?とりあえずねつ造論文は撤回されていますので、Spiegelman教授のグループがその真のデータを用いた論文を作成することは十分可能です。審査員も事情は知っているでしょうから新規性無しという判断は下さないでしょう。ではこの研究が特許にからんでいたらどうなるでしょうか?この場合は公知の事実となってしまうのでしょうか?学会で既に発表してしまっているので、手続きは必要と思いますが難しい問題だと思いわれます。
では、事件の核心ですが、犯人はいったい誰で何のためにこんなことをやったのでしょうか?もとの論文を読むことは既にできませんので証拠の検証は難しいのが現状ですが、犯人像としてはSpiegelman教授になんらかの恨みをもつ者と推察します。論文の作成はそれなりに手間がかかりますし、審査への対応も短時間でできるものではありません。そこまでのことを愉快犯がやるとは考えにくいです。
犯人が残した痕跡はElsevier社にしかありませんが、本気になればIPアドレスを追うことぐらいはできるでしょう。ねつ造論文の著者は、ギリシャのUniversity of Thessalyに所属する、
Alkistis Vezyraki, Stilianos Kapelouzouc, Nikolaos Fotiadisb, Moses S. Theofilogiannakosa, Evridiki Gerou
で、最後のGerou氏がコレスポンディングオーサーで幽霊の正体です。この5名の名前は問題論文以外ではGoogleでもPubMedでもSciFinderでもヒットしません。当然University of Thessalyにそのような人物が在籍していた形跡は一切ありません。それだけで既に手詰まりに思えますが、大変興味深いことが2つあります。
一つ目は著者の氏名に関するものです。
真ん中の3名の名前ですが、見る人が見れば(ギリシャ人など)かなり妙な名字だそうです(後述)。その前にコレスポンディングオーサーのGerou氏について検索すると、
Clinical Endocrinology 77, 816-822 (2012). DOI: 10.1111/j.1365-2265.2012.04459.xの論文の著者はギリシャのグループで、
Athanasios D. Anastasilakis, Stergios A. Polyzos, Sideris Delaroudis, Ilias Bisbinas, Grigorios T. Sakellariou, Athina Gkiomisi, Evridiki Papadopoulou, Spyridon Gerou, Polyzois Makras
であることに気づきます。色づけした氏名を組み合わせると一人完成しますね。次に筆頭著者のVezyraki氏を検索すると、
Biochemistry Research International 2011, 285618 DOI: 10.1155/2011/285618の論文の著者はギリシャのグループで、
Christos S. Derdemezis, Dimitrios N. Kiortsis, Vasilis Tsimihodimos, Maria P. Petraki, Patra Vezyraki, Moses S. Elisaf, and Alexandros D. Tselepis
また、
Clinica Chimica Acta 412, 48-52 (2011). DOI: 10.1016/j.cca.2010.09.012の論文の著者はこちらもギリシャのグループで、
Nikolaos P.E. Kadogloua, b, Argirios Gkontopoulosa, Alkistis Kapelouzouc, Grigorios Fotiadisb, Efstratios K. Theofilogiannakosa, George Kottasa, Stilianos Lampropoulosa
となっています。上付きのa-cは所属を表すときに論文誌ではよく使う記号です。
色づけしたところに注目してください。そうなんです。これらの論文から適当に抜き出していくとあら不思議問題論文の著者の名前を全てつくることができます。特に3つ目の論文では所属を表すa, b, cも最後にくっついていますので、名前をコピペしたときにそれが名字に追加された結果、あり得ない妙な名字を作り出すことに成功したのでしょう。あり得ない氏名というのは検索に引っかかりませんので犯人にしては好都合ですね。
二つ目に興味深いのは、上記3つは全てギリシャのグループによるアディポサイトカインに関するの論文であるということです。
さてこれらを偶然の一致だと思いますか?
明確な悪意がある者の犯行であることは間違いありません。そして犯人はアディポサイトカインに関する知識を有することは明らかで、ねつ造ではあっても審査を通過してしまうほどの論文をでっち上げることが可能なほど高度に訓練されています。
同業者に陥れられるとはこれほど恐ろしいことはありません。論争の末に人間関係が悪化することも大いにあり得ますし(まさかね)、学術的な競争の末に本人の意向とは無関係に敵を作ってしまうこともあるでしょう。研究資金や賞の獲得関係で恨みを買う可能性もありますし、待遇の悪いポスドクや不合格になった大学院生がいたかもしれません。全て想像の範囲を超えませんがこんなに狭い世界なのに犯人像を絞ることは容易ではないでしょう。
まさか3つの論文が犯人に繋がる何らかのヒントになっているのか・・・単なるミスリードを誘う罠なのか・・・知り合いのコナン君に聞いたのですが専門家ではないのですいません分かりませんでした。
剽窃や盗作というのはたまに事件になりますが、今回の事件は罪を犯す犯人に何のメリットもないという常軌を逸したものでした。いずれにしても、現代の論文peer reviewシステムの盲点を突いたこの事件、研究者でしたら誰でも被害者になる可能性が少なからずあろうと思いますのでお気をつけて(どうやって?)。