炭酸水素ナトリウム、通称重曹についてのお話です。前回の続きです。
前回は「重曹」という名前の由来と、ベーキングパウダーとしての利用で終わってしまいました。
今回は本題の「なぜお掃除に重曹がいいか」という話に戻りましょう。
重曹を使ったお掃除のことを最近ではナチュラルクリーニングと言うらしいです。
ソルベー法で工業的に合成された純度100%の炭酸水素ナトリウムが「ナチュラル」というのはどうかと思いますが、まあ結果論として害は少なそうので、そこは気にせず本題に入りましょう。
「お掃除に重曹」とアルカリによる加水分解反応
重曹でお掃除すると汚れが取れる理由、それは重曹がアルカリ性で、汚れが酸性だからです!
・・・という、微妙に間違った説明を見たのが、実は今回の記事を書いている理由だったりします。小さな間違い大きなエセ科学の元とも言いますから。
そこで、重曹が汚れを落とすメカニズムを、順番に見ていきましょう。
1,クレンジング効果
重曹は、比較的水に溶けにくい塩です。(これによりソルベー法が成り立ちますね。)
そのため、粉の重曹をまいてこすると、クレンザーと似た効果を示します。つまり物理的に「こすり落とす」効果ですね。しかも硬度は2.5程度決して高くなく、つまり適度に柔らかいため、傷つけにくいということもあります。傷を全くつけないというわけではないのであしからず。また重曹を水に溶かしてスプレーした場合、この効果は全くありません。
通常のクレンザーは岩石の主成分であるケイ酸塩が含まれており、モース硬度(Mohs hardness)は7程度らしいです。そのため傷がつきやすいようです。
余談ですが、クレンザーもモース硬度表示をして、硬度1,5,9の3種類くらい出したらいいのにと思います。
2,重曹による油脂の加水分解
脂肪は酸でもアルカリでもありません。脂肪と水を混ぜると、混ざらずに分離しておしまいです。では重曹を混ぜるとどうなるか。
重曹と水が混ざると、重曹によりわずかにアルカリ性を示し、水酸化物イオン(OH–)ができます。これが脂肪やタンパク質と反応し、加水分解を引き起こします。
脂肪はグリセリンと脂肪酸のナトリウム塩に分解されます。これをケン化(鹸化:saponification、高校の化学で習います)といいます。
この中で脂肪酸のナトリウム塩というのは、石鹸の主成分です。
ちなみにアルカリ水溶液はタンパク質も加水分解します。この反応は手がぬるぬるするというので確かめることもできるとおり、生物にもダメージを与えます(もちろん皮膚のほんの表面だけですが)。というわけで、強いアルカリは肌荒れの原因になります。重曹ならほとんどぬるぬるもわかりませんが、もちろん肌荒れの原因になります。
3,脂肪酸塩のミセル化
脂肪酸のナトリウム塩は図のような形をしています。この脂肪酸ナトリウム塩は「二重人格のような性質」を持っています。この長い部分は「水に混じりにくく、油に混じりやすいという性質」(親油性)を示します。一方、反対側のカルボン酸部分は「水に混じりやすく、油に混じりにくいという性質」(親水性)を示します。このような性質を界面活性とか両親媒性といい、汚れを落とすのに大切な性質です。脂肪酸塩が油汚れに出くわすと、油の方にしっぽを向け、カルボン酸部分を外側に向けて玉を作ります。これがミセルと呼ばれるもので、脂肪酸塩は水に溶けない油汚れをミセルにして溶かす(分散させる)のです。これは石鹸の仕事と全く一緒です。
以上をまとめると、重曹は
(1)クレンザー代わりとして汚れを掻き出し、
(2)油汚れから石鹸を作り、
(3)石鹸が汚れを落とす
という3ステップで働いています。
このうち(2)の反応は、アルカリ性が弱いので遅く、効きがそんなに良いとは思われません。そのため、全ての油脂やタンパク質を重曹が分解しているということはまずあり得ません。汚れが落ちる理由は(2)によってできた石鹸による効果が大きいはずです。
(それなら最初から石鹸(粉石鹸)を使えばいいのではないかと思ったりしますが、、、)
ちなみに石鹸は実際に油から作られていますが、水酸化ナトリウムのような強アルカリで分解するか、高温・高圧で分解することで効率よく行っています。
家庭でも、重曹を空炒りして
2NaHCO3 → Na2CO3 + H2O + CO2
の反応により炭酸ナトリウムを作り、アルカリ性を強くしてからお掃除に使うと汚れはより落ちやすくなると思いますが、汚れが落ちやすいと言うことは肌にも良くないですし、革製品や衣服にも良くないので、おすすめしません。
「消臭に重曹」と重曹の緩衝作用
重曹は大学の実験室にも25kgの袋入りの状態でストックされています。大学では主に酸の中和用として使われます。ここでも
2NaHCO3 → Na2CO3 + H2O + CO2
の反応が生きています。ポイントはこの反応が吸熱反応であることです。
例えば塩酸を中和すると
NaHCO3 + HCl→ NaCl + H2O + CO2
(訂正 2012/3/9/15:22:塩酸が抜けていました。)
という反応で二酸化炭素の泡が出ます。中和反応はかなりの発熱反応ですが、熱が出たら上の反応が起こってCO2を発生させながら温度を下げます。そのため温和な条件で反応が進みやすいのです。
また、重曹水はpH 8 程度とアルカリと言っても弱いため、重曹を過剰に使用しても害が少ないということもあります。酸が来るとまたCO2を出して、弱アルカリ性に戻るという、pH を安定化させる効果があります。これを緩衝作用と言います。
さて、pHが弱アルカリ性に保たれると臭いが消えるというのはどうしてでしょうか。
これもやはり中和反応によるものです。
嫌な臭いの元は、炭素数が短めのカルボン酸類やチオール類であると言われていて、ほんのわずかでも、我々の嗅覚は敏感に嗅ぎ付けることができるようになっています。
ところで、酸よりも中和したものの方が空気中に飛び出しにくくなります。
典型的な例は塩酸と塩化ナトリウムですね。
塩酸は鼻をつくような刺激臭がしますが、中和して塩化ナトリウムにすると全くにおいません。それは沸点が全く違うからです。塩酸は分子性物質で、加熱すれば気体のHClとして出てきますが、塩化ナトリウムはNa+ とCl– に完全にイオン化されており、プラスとマイナスが引き合う力で、飛び出してこないのです。
同様のことが悪臭物質にも言え、たとえばプロピオン酸に重曹水を吹きかけると、
CH3CH2COOH + NaHCO3 → CH3CH2COONa + H2O + CO2
という反応によりプロピオン酸ナトリウム塩となり、気化しなくなります。臭い物質がいなくなるわけではありませんが・・・。
同様のことが硫黄系の臭いにも言えます。
というわけで、消臭効果については「酸性の臭いにアルカリ性の重曹水を吹きかけると中和されて臭いが消える」というのは、正しい説明です。
ちなみにこれを強アルカリでやると衣服や革も痛みます。重曹なら大丈夫、というわけですが、弱アルカリ性の状態でどれくらい衣服が大丈夫かは保証の限りではありません。アルカリですので、原理的には多少の色落ち(色素成分も分解を受ける可能性があります)や、質の劣化があってもおかしくはありません。
化学者からの洗剤の弁護
以上、「重曹で料理」「重曹でお掃除」「重曹で消臭」という家庭のお仕事を、化学の眼で解説しました。中学や高校で学んだ訳のわからなかったことも、少しは世の中の役に立っているかも知れない、と思って頂ければありがたいです。
ところで、石鹸は何千年も前から利用されていますが、その前は藁を焼いた灰を用いていました。灰の主成分は水酸化ナトリウムと炭です。つまり大昔は「水酸化ナトリウムと活性炭でお掃除」をしていました。その後「弱アルカリ性の石鹸でお掃除」に変わったのは、保存が利き、どんなところでも簡単に汚れが落ちるからです。
その後20世紀になって中性洗剤が発明されました。これは界面活性剤としてスルホン酸塩を化学合成したものです。スルホン酸塩にすることで水に良く溶け、効率的に汚れを分解する、画期的な合成洗剤が発明されました。これは中性ですので加水分解を起こすことなく、ミセル化による汚れを落とす効果を持っている、画期的な洗剤です。
合成洗剤の問題点はいくつかありますが、少なくとも毒性については極めて厳格なチェックのもと、全く問題ないことを確認して初めて商品化できます。昭和に起こった河川の汚れなどは結局下水処理が満足にされていないところで豊かな生活をし始めたことに依ります。
洗剤の汚れを落とす効果は、ある種の汚れに対しては、アルカリが強ければ強いほど強力です。と同時にアルカリは我々の皮膚や衣類にもダメージを与えることがあります。それを扱いやすくしてきたという歴史があるのです。
さらに日本では、衣服、皮膚、眼に入ったとき、何か別のものと混ぜたときなど、様々な問題が一例でも新聞で報道されれば、莫大なマイナス効果が出てしまいます。そのためにあらゆる危険性を取り除いていってできあがったのが今売られている洗剤なのだと言えます。しかし、「水で洗ってもとれない汚れを落とす」というのはすごいことなのです。だからいろいろやって安全になった洗剤より、何もしていない重曹の方が汚れを良く落とすことがある、と言うことは起こり得るとは思います。
というわけで、中性洗剤を目の敵にするのはどうかと思いますし、重曹を使って何かをやる場合、衣服が傷んでも自己責任だと言うことは認識していて下さい。